日本各地のお寺や美術館・博物館には、さまざまな大きさ、形、そしてつくられた国や時代が異なる「仏さま」をかたどった像こと、「仏像」が多く安置・展示されている。
そうした「仏さま」の中でも、お寺や美術館などばかりではなく、都会や田舎を問わず、いつも通る道の片隅に、守り神のようにずっと立っている「像」がある。それは、地域のおじいさん、おばあさんがいつもきれいに掃除して、お花やお供え物を絶やさないようにしている「お地蔵さん」「お地蔵さま」だ。
お地蔵さんの正式名称や、それが登場した時代や歴史、姿形の由来とは
「お地蔵さん」の正式名称は地蔵菩薩である。地蔵菩薩は梵語名、クシティガルバ。大地を意味するクシティ、胎内・子宮を意味するガルバを梵語から成る。お祈りの際に唱える真言(しんごん。マントラ。呪文のこと)は「オンカカカビサンマエイソワカ」。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の「六道(りくどう)」のどこにでも出現し、主に釈迦入滅後、次の弥勒仏が現われるまでの56億7000万年の「無仏(むぶつ)時代」の間、すべての人々を救済すると信じられている。
このような地蔵菩薩が描かれたり、像としてかたどられるときは、剃髪し、袈裟を身につけた若々しい修行僧の姿となっているのが通例だ。また、持物(じもつ。アトリビュート。特定の神や仏が持っている、特殊な持ち物のこと)は如意宝珠(にょいほうじゅ。先端が円錐形にとがった、さまざまな霊験を表すとされる宝の珠)や錫杖(しゃくじょう。旅の僧が携行する杖。先端の輪に遊環が6〜12個通してあり、音が出る。もともとは、山野遊行の際、動物や毒蛇から身を守るため、そして托鉢の際に、家の玄関先で音を鳴らし、来意を告げるためのものだった。煩悩を除去し、知恵を得させると信じられている)や宝剣、蓮の花などである。
仏教発祥の地インドや、中国でもお地蔵さんと似た存在が古くから確認されている
仏教発祥地のインドでは、信仰対象としての像やレリーフ、絵などに表された形での地蔵菩薩は、今現在見つかっていない。しかし7〜8世紀に活躍した僧侶・シャーンティデーヴァが著した『大乗集菩薩学論』などの中に地蔵菩薩にまつわる記述が登場することから、何らかの形で信仰されていたと考えられる。
中国では玄奘(げんじょう)が漢訳した『大乗大集地蔵十輪経(だいぞうだいしゅうじゅうりんぎょう)』などに現れ、大体400年頃から信仰対象であったことがわかる。また、600年前後に占卜(せんぼく)の行法を地蔵信仰に結びつけて説かれた『占察善悪業報経(せんざつぜんあくごうほうきょう)』や10〜11世紀に記された偽経(ぎきょう。サンスクリット語訳のものではなく、中国でつくられたもの)とされる『地蔵菩薩本願経(ほんがんぎょう)』など、地蔵信仰による現世利益が強調されているものも存在する。
日本には平安末期にお地蔵さんが伝わる
このような地蔵信仰は、日本には平安末期に伝わる。当時は貴族の勢力が衰え、武士が台頭し始めていた。しかも、規範となるべき天台宗などの旧来の寺では、僧侶は腐敗し、民衆の不安は増大していた。それゆえ、浄土教による、「釈迦の教えが及ばなくなった末法では、仏法が正しく行われなくなる」という末法思想が蔓延するようになった。その結果、極楽浄土に往生が叶わない衆生(しゅじょう)は必ず地獄に堕ちると信じられ、地獄の責め苦からの救済、自分の身代わりとなって苦を受けてもらう神的存在が求められるようになった。
そこに中国から伝わった地蔵信仰が融合し、様々な変化を遂げながら、現在に至るまで、老若男女、身分や立場を超えて、日本中で親しまれてきた。しかも、地蔵菩薩そのものばかりではなく、地域の誰かしらと地蔵とが一体となった形で信仰されることが多く見られることも、日本の地蔵信仰の面白さと言える。
死後ではなく生前の苦しみや痛みから助けてくれるものが地蔵信仰の功徳・利益
例えば、江戸時代のことだが、あるとき、歯痛に苦しんでいた水野日向守勝成の奥方・お珊が地蔵菩薩に一心に祈ったところ、快癒した。その後、お珊は死の間際に、もしも歯痛に悩む者がいたら、自分の墓前で地蔵の真言を唱えれば、必ず治るだろうと周囲の者に遺言した。お珊の遺骨は現在の広島県福山にある定福寺に葬られた後、江戸の善長寺(現・港区芝公園)に分骨された。そこに「お珊地蔵」が立てられ、歯痛に苦しむ人が多く参集するようになったという。
このように地域に根づいたものばかりではなく、我々がよく知る地蔵菩薩とは、『地獄絵図』に見る、罪人に課せられる苛烈な責め苦のみならず、幼くして亡くなった子どもが獄卒から受けるひどい仕打ちから救い出し、癒してくれる存在である。それは、900年頃に日本で独自に成立し、口づてに伝えられ、さまざまなバリエーションがある『地蔵和讃』にその情景が描き出されている。
…これはこの世のことならず/死出(しで)の山路の裾野なる 西の河原
(賽の河原)の物語…この世に生まれし甲斐もなく/二つ三つや四つ五つ
にも足らぬ嬰児(みどりご)が/皆この河原に集まりて 苦患(くげん)を
受くるぞ悲しけれ…数も限りも荒砂(あらすな)の 上に集まる幼児が/小
石小石を持ち運び これにて廻向の塔を組む…日も入相(いりあい)の其の
頃は 地獄の鬼が現れて…黒鉄(くろがね)の棒を振りまわし/積んだる塔
を押し崩す…其の時誰か悲しむや/地蔵菩薩に如(し)くは無し 遥か谷間
の彼方より/光明かがやき尊くも 子供の前に立ち給ひ…幼きものを御衣
(みころも)も 裳(もすそ)の内にかき入れて/未だ歩まぬ幼児を 錫杖
の柄に取りつかせ/忍辱(にんにく)慈悲の御肌(みはだえ)に 抱(いだ)
き抱えて撫でさすり…
子供の守り神という側面が強いお地蔵さん
当時は、親よりも早く世を去った幼い子どもは親を悲しませ、親孝行の功徳を積んでいないことから、三途の川を渡ることができない。そのため、現世と来世の境にある賽の河原で鬼のいじめに遭いながら、石の塔婆づくりを永遠に続けなければならない。しかし、そんな子どもたちのために、地蔵はあえて賽の河原に赴き、鬼から子どもたちをかばい、徳を与え、成仏への道を開いてくれると信じられていた。
このような「地蔵和讃」の世界観から、地蔵菩薩は子どもの守り神という側面が際立つことになっていった。我々がよく知る、地域の「お地蔵さま」の首回りに子どものよだれかけがかけられているのも、その反映であろう。
このような「お地蔵さん」の具体例として、ここでは、かつて宿場町として栄えた品川宿(しながわじゅく)を擁した、今日の品川区の「お地蔵さん」を取り上げてみたい。
品川区にあるお地蔵さんを紹介
品川区には、主に以下の地蔵がある。
・縛られ地蔵(南品川2丁目の願行寺)
・身代わり地蔵(大井三ツ又の路傍)
・塩立て地蔵(西五反田5丁目の安楽寺。願い事があるとき塩を盛ると叶う。地蔵の足元が風化して細くなっているのは、人々の願いを叶えるために、やせ細ってしまったと信じられている)
・塩地蔵(西五反田3丁目の徳蔵寺。眼病を癒す)
・関の地蔵(大井4丁目の西光寺。病気平癒)
・朝日地蔵(小山2丁目。安産・厄除け・子育てにご利益がある)
・江戸六地蔵 第一番 (南品川3丁目の品川寺)
最後の「江戸六地蔵」の「六」は、「六道のそれぞれに現れる」地蔵菩薩のありようを示している。1708(宝永5)年に、深川の僧・地蔵坊正元(じぞうぼうしょうげん)が京都の六地蔵に倣って、江戸への入り口6箇所(現・品川区、台東区東浅草、新宿区新宿、豊島区巣鴨、江東区白河、江東区富岡)に地蔵菩薩像を建立した。それは正元が24歳の頃にかかった病気が地蔵菩薩への信仰によって治癒したことがきっかけだった。そして『江戸六地蔵建立之略縁起』によると、六地蔵には、天下安全・武運長久・御城下繁栄を祈り、諸国を往来するすべての衆生にあまねく縁を結ばせたいという願いが込められているという。
品川区西五反田6丁目に「子別れ地蔵」という違和感を感じさせる名前のついたお地蔵さんがある
これらの「お地蔵さん」と類似のものは、日本全国に多く存在していることは言うまでもない。しかし品川区の西五反田6丁目の旧中原街道の一角に「子別れ地蔵」という、あまり耳にしない名前の「お地蔵さん」がある。「お地蔵さん」そのものの高さは155m。今では左脇に置かれている蓮華座や台石を含めると、江戸期には2m以上の高さがあったことになる。経年劣化に加え、第2次世界大戦当時、品川区の国道一号、旧中原街道沿いの一帯は空襲が激しかったため、「お地蔵さん」そのもの、そして台石や蓮華座も、損傷や剥落が目立つ格好になっている。
「お地蔵さん」のそばの立札には、「このお地蔵様は享保12年(1727)に建てられた、『子別れ地蔵』と呼ばれる地蔵菩薩です。ここはかつて桐ヶ谷の火葬場に続く道筋で、子に先立たれた親が、その亡骸(なきがら)を見送った場所であったと云われております」と記されている。
また、1983(昭和58)年に品川区教育委員会で編まれた『品川区資料 2 庚申塔・念仏供養塔・回国供養塔・馬頭観世音供養塔・地蔵供養塔・道標』によると、現在では判読不能だが、台石の両側面、蓮華座の周囲に、建立の施主名が多数刻まれ、それらのほとんどが商人の名前であるという。
桐ヶ谷斎場との関係が深かった「子別れ地蔵」
そして「桐ヶ谷の火葬場」とは、今日の桐ヶ谷斎場のことである。桐ヶ谷斎場の前にある霊源寺内の荼毘(だび)所が、「火葬場」の始まりとされる。
「霊源寺内の荼毘所」はもともと、芝三田(現・港区三田)の長松寺内にあった荼毘所だった。それが三代将軍家光の頃、桐ヶ谷村に移されたという。火葬の風習そのものは仏教と共に日本に伝わっていた。大化の改新当時に定着したが、ごく一部の富裕層のみが火葬に付され、一般人は土葬が当たり前だった。
そのため、「霊源寺内の荼毘所」は当時としては珍しいものだった。しかも、今日の火葬場とは異なり、石を並べ、その上に棺を乗せて燃やすという簡便なもので、なおかつ、昼夜を問わず、火葬が執り行われていたという。明治の初め頃に昼間の火葬が停止された後、1885(明治18)年に寺と荼毘所は分離され、1918(大正7)年には、現在の東京博善株式会社に経営が引き継がれ、今に至っている。
桐ヶ谷斎場と「子別れ地蔵」の関係性と、その名前の由来とは
このように、桐ヶ谷村の荼毘所へ向かう道筋に立てられた「お地蔵さん」が何故、「子別れ地蔵」と呼ばれてきたのだろうか。親より先に子どもが死出の旅に旅立つことは「逆縁」と呼ばれ、本来あるべきことではないとして、今なお、親が火葬場に付き添い、骨を拾うことができない場合がある。江戸期ではそうした風習は今以上に重んじられていたため、子どもを亡くした親は、「お地蔵さん」の前で、子どもを見送った。それでいつしか「子別れ地蔵」と呼ばれるようになったのだ。
今では、この周辺は宅地化が進み、江戸期の面影は全くない。しかも、「そこ」しか火葬場に向かう道がない、というわけでもなくなった。そして徒歩行列の形で、遺族が火葬場に向かう習慣も廃れてしまっているため、親が子どもとの別れを嘆く「悲しい場所」の面影は消えている。それらのことから、「子別れ地蔵」の本来の役割は終わってしまった。だが、それにもかかわらず、地域の誰かしらの手によって、この「お地蔵さん」は今なお、きれいに掃除され、真紅の帽子とよだれかけ、そして幾束もの鮮やかな千羽鶴がかけられている。
最後に…
時代が移り、風景が変わっても、「過去」が何気ない形で残り、今でも大切にされていることは、実にありがたいことだ。
巣鴨の「とげぬき地蔵」のように特別なご利益があり、多くの人が参集する「お地蔵さん」ばかりではなく、西五反田の「子別れ地蔵」のように、地味な「お地蔵さん」がそこにただじっと佇んでいる、そのささやかな「ありがたさ」が、時代の流れや不心得者によって、壊されたり消えることなく、後世に継承されていくことを切に祈るばかりだ。
参考文献:品川区史 通史編 上巻、 日本宗教事典、 庶民仏教 (図説 日本の仏教)、 品川区史跡散歩 (東京史跡ガイド)、 地蔵菩薩 地獄を救う路傍のほとけ