江戸時代初期の江戸では、支配者層・庶民層共に火葬は非一般的な葬法であった。しかしその後、江戸時代の後期〜末期に至ると、火葬率は約50%程度まで上がったようである。
武士階級、特に上流武家では、悪臭や「穢れた煙」の発生源になるとされたため、好ましくないとされていたが、庶民層の人々にとっては、上流武家の人々ほどはタブーとされなかった。そのため、細々とではあるが、江戸の火葬率が上昇していたのである。また、落語の古典的な演目の中にも、一般庶民の葬送習俗が活写された作品は多いが、そうした中でも火葬は決してタブー視されていない。
しかし実態はとても一般的な葬送とは言いがたかった
しかし、実際の火葬率は必ずしも高くはなかった。そのため、江戸期を通じて、江戸では火葬は一般的な葬法とは言い難かった。
なぜか。それは一つには、火葬に積極的な傾向が強く、庶民を中心に信仰された浄土真宗(当時は「一向宗」の名であった)は、江戸では少数派であったからである。また、悪臭や「穢れた煙」が将軍にかからないよう、将軍が寛永寺や増上寺に参詣したりする日には、火葬が禁じられたということも大きい。
火葬とその葬送で葬られる人々をリンクして、マイナスイメージを持っていた
しかし、より大きな理由がある。それは、江戸の庶民にとって火葬は、「想定外の悲惨な死を遂げた人々の葬法」というイメージもあった、ということである。従って、いわゆる「床や畳の上での死」を迎えた死者にはふさわしくない、「縁起でもない葬法」であるともされた。いわば、支配者層とは別の視点ではあるが、庶民層にも火葬をタブー視する感覚は、確かに存在していたのである。
江戸では大火が複数回起こり、その度に多くの身元不明の死者が出ており、また疫病や飢饉を含む自然災害によって、大量の身元不明の死者が出ることも、決して少なくなかった。そうした際には、衛生上の問題もあり、火葬というより遺体の焼却処理といったようなタイプの集団火葬が行われた。
この「有事の際の大量の死者の遺体の焼却処理」のイメージが強かったため、火葬は平穏な死を迎えた死者の葬法としては不適切だとされた面も、実は強かったのである。
参考文献:江戸の町は骨だらけ、 中国古典文学大系