詩人・歌人の釈迢空、そして民俗学者の折口信夫(1887〜1953)が記した『死者の書』(1943・昭和18年)という作品がある。
752年の東大寺大仏開眼(かいげん)当時の奈良を舞台とする本作は、不本意な死を遂げた後、50年の時を経て、墓所の中からよみがえった滋賀津彦(しがつひこ)と、祖先の霊に仕える斎姫(いつきひめ、巫女・神の嫁)として育てられていた藤原南家(なんけ)郎女(いらつめ)が神秘的な出会いをなし、最終的に郎女を含めた世界全体が、阿弥陀浄土へと昇華していく、とても難解で不思議な物語だ。
「死者の書」はどのような理由で書かれたか
作者の折口は、「冷泉為恭(れいぜいためちか、1823〜1864)などが描いた「山越(やまごし)の弥陀をめぐる小説」であり、「ゑぢぷともどきの本」であり、「歴史に若干関係あるやうに見えようが、謂はゞ近代小説である。併し、舞台を歴史にとったゞけの、近代小説といふのでもない。近代観に映じた、ある時期の古代生活」を意図して書いたものだという。
ここで言う「山越の弥陀」とは、「阿弥陀仏の腰から下は、山の端(は)に隠れて、其から前の画面は、すつかり自然描写—といふよりも、壷前栽(つぼせんざい)を描いたといふやうな図どり」の仏画である。折口がそれに着目し、『死者の書』へ結実させたのは、「渡来文化が、渡来当時の姿をさながら持ち伝へてゐると思はれながら、いつか内容は、我が国生得のものと入りかはつてゐる。さうした例の一つとして、日本人の考へた山越の阿弥陀像の由来」を学術的な評論のみならず、「小説」としても、書きたくなったからだという。
また、「ゑぢぷともどき」とは、紀元前1567〜紀元前1304年に成立したとされる、古代エジプトの『死者の書』(Book of the Dead)を折口が強く意識したことを意味している。この書物は主に、死者が冥界において、加害者・悪魔・第2の死などに遭わないよう、死者の審判を受ける際に無罪となるための呪文が集められているものだ。
「死者の書」執筆前に起こった不思議な出来事
「死者の書」執筆前の折口は、奈良時代の横佩垣内(よこはぎかきつ)家(藤原豊成、ふじわらのとよなり、704〜766)の姫の失踪事件を描いた、未完の『神の嫁』(1922・大正11年)を書き継ごうか、出直そうか、何となく心に残っていた。
そんなとき、「何とも名状の出来ぬ、こぐらかつたやうな夢をある朝見た。さうしてこれが書いてみたかつたのだ。書いてゐる中に夢の中の自分の身が、いつか、〔藤原南家郎女のモデル。當麻寺(たいまでら)に伝わる「當麻曼荼羅縁起」に登場する伝説上の姫〕中将姫(ちゅうじょうひめ、747〜775)の〔身の〕上になつてゐたのであつた」と述べていた。
「こぐらがった夢」とは、折口の弟子のひとりであった加藤守雄(もりお、1913〜1989)が折口から聞いたところによると、「中学生の頃、折口の友人だった男が夢の中に現れて、自分に対する恋心を打ちあけた」というものだ。その後折口は、「30年も過ぎてから、夢に見たことが不思議でならない。それを絵解きしてみよう」と思い、『死者の書』を書き始めたという。
連載時の内容と出版された内容では構成が異なっている
しかも1943年に青磁社から出版された『死者の書』は、1938(昭和13)年に雑誌「日本評論」に3回に渡って連載されていたものと、構成が異なっている。最初のものは郎女が朝方、當麻寺に到着し、寺の伽藍を拝する場面から始まる。しかし青磁社版では、二上山(ふたかみやま/にじょうざん、現・奈良県葛城市)の塚の中で滋賀津彦が死の眠りから覚めるところから話が始まっている。こうすることで、タイトルの『死者の書』に、よりふさわしいものになったと言える。
しかも当初は文頭に、古代中国の周の穆王(ぼくおう。紀元前985?〜紀元前940)が、現在の華北地域から中央アジアまで遠征した事蹟を記した中国初の旅行記、『穆天子傳(ぼくてんしでん)』(作者・成立年代不明、282年以降か)内の、穆王の妻・盛姫(せいき)が旅の途中で亡くなった箇所が引用されていた。折口としては、「倭・漢・洋の死者の書の趣が重(かさな)つて来る様で、自分だけには気がよかつた。さうする事が亦、何とも知れぬかの昔の人の夢を私に見せた古い故人の為の罪障消滅の営みにもあたり、供養にもなるといふ様な気がしてゐた」というが、1943年版では省かれている。
時間の整合性がない「死者の書」
このような「死者の書」が読者に「難解」に感じられる理由のひとつとして、登場人物の時間的な整合性がないことが挙げられるだろう。
物語中でよみがえった滋賀津彦は、モデルとされる大津皇子(おおつのおうじ、663〜686)だけではなく、大友皇子(おおとものおうじ、648〜672)でもあり、隼別皇子(はやぶさわけのおうじ、?〜352)でもあり、神話の神・天若日子(あめのわかひこ)でもあるという。
まず大津皇子は父・天智天皇の死後、皇太子・草壁皇子(くさかべのおうじ)に謀反を企てたかどで、非業の死を遂げる羽目となった。そして大津皇子の恨みを恐れた義理の母・持統天皇によって、悪い魂や災厄を奈良の都から防ぐよう、都から遠く離れた葛城の二上山に葬られた。
次に大友皇子は天智天皇の長子だったが、672年の壬申の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)と争った際、敗れた。最終的に山前(やまさき、現・京都府乙訓郡大山崎町か)で縊死することとなった。
そして隼別皇子は応神天皇の皇子だったが、352年に天皇が雌鳥(めとり)皇女を妃とするため皇子を遣わしたところ、皇女と通じていた皇子は、命令に従わなかった。しかし天皇は皇子を罰しなかった。すると皇子は、天皇を侮るようになった。それに怒った天皇は、皇子を殺すことにした。皇子は皇女を連れて伊勢神宮に逃げたが、最終的に殺されてしまった。
具体的には…
最後の天若日子は『古事記』(712年)に登場する神のひとりである。高御産巣日神(たかみむすひのかみ)と天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、天津国玉神(あまつくにたまのかみ)の子である天若日子に鹿を射る矢と大蛇(おろち)を殺す矢を与え、葦原中国に派遣した。
しかし天若日子は、大国主神(おおくにぬしのかみ)の娘の下照比売(したてるひめ)を妻にし、8年経っても戻らなかった。そこで思金神(おもいかねのかみ)は、鳴女(なきめ)という名の雉(きじ)を派遣し、天若日子が戻らない理由を聞いてくるように提案した。葦原中国に降り立った鳴女と天若日子が対面したとき、「この鳥は大変声が悪い。殺した方がいい」と進言した者の言い分を聞いた天若日子は、高天原で賜った矢で鳴女を殺してしまう。するとその矢は、天照大御神と高御産巣日神の元まで届いた。高御産巣日神は「もし、天若日子に悪い心があるのなら、矢に当たって死ね」と言い、矢を取って、もと来た方を目がけて矢を下した。すると矢は天若日子の胸に命中し、言葉通りに死んでしまった。
これらのことからわかるのは、天若日子→隼別皇子→大友皇子、または天若日子→隼別皇子→大津皇子ならば「生まれ変わり」としての連続性はある。しかし大友皇子→大津皇子の場合は、ふたりは9年間、同じ時代を生きていたことから、時間的な連続性は全く存在しない。
更によみがえった滋賀津彦のことを郎女に語って聞かせていた媼は当初、仏教伝来以前、過去の事象を一子相伝の形で語り継ぐ語り部であったはずだったのに、いつしか蓮糸を集め、糸を染め、曼荼羅を織り成すことを郎女に助言する、阿弥陀仏の化身である尼(化尼、けに)に変わってしまっているのだ。
更に「死者の書」が難解で不思議とされている理由は…
人の「人格」、または「霊格」が、同じ時や場所を共有している人間同士であっても、容易になり変わってしまうということは、現在の我々の感覚からすると、時系列や存在そのものの破綻に思えてしまう。だが逆に、物語そのものの理屈の合わなさや、矛盾に満ちている部分こそ、古代日本人の信仰、または神話そのもののありよう、更には、日本独特の宗教/信仰形態である神仏習合、本地垂迹を表現しているとも言える。しかもそれは宗教や信仰にとどまらず、日本人が得意とする、外来の未知の文化や思想を拒絶/遮断するのではなく、巧みに旧来の文化に取り込み、オリジナル以上のクオリティやユニークさを有する文化や思想を新たに生み出してしまう「国民性」をも描写していると言ってもいいだろう。
しかも折口自身は、20代から晩年まで、口述筆記によって文章を書いていたという。それは、多くの書物を読破した上で、独自の考察を進めて文章を書くとき、折口の頭脳は極めて多岐に複雑に、そして敏速に働いていたため、自分で文字に表記することのじれったさに耐えられず、書くことは他者に任せて、自身で書くことのまどろっこしさにあきらめをつけたからだろうと、推察されている。
従って、『死者の書』が「難解」で「不思議」に思われるのは、多くの「小説」や「物語」を構成する明確な起承転結があるわけではなく、釈迢空としての折口がなした詩歌だったり、「霊」または「神」が「書かせた」、自動書記の「霊言」、或いは整合性が全くない夢物語のように映ってしまうのは、仕方のないことかもしれない。
最後に…
折口の弟子のひとりであった岡野弘彦(ひろひこ、1924〜)は、折口が追求しようとしている「古代」とは、「歴史学的な古代、つまり歴史上の時間の一時期に限られるのではなくて、現在もわれわれの心の中に存在する古代性をも含んでいる」ものだと指摘する。また岡野は、『死者の書』の主題をひとつに絞ってみようとしても容易ではないし、それはあまり意味がないと言う。それは折口が、自身の古代追求の成果の窮極の表現は、結局は戯曲あるいは小説の形を取らざるを得ないと早くから考えていて、何度か試みた後に、50代に入ってから書いたものが『死者の書』である。その中には、折口がとらえた、様々な古代が息づいている。それを単純にひとつの主題に絞って考えようとすると、他の多くのものを見逃すことになってしまう、と読者に対してアドバイスを行っている。
裸形で郎女の前に現れた滋賀津彦のために、「おいとほしい。お寒からうに」と織り上げ、更に曼荼羅を描いた衣が完成した後、「其は、幾人の人々が、同時に見た、白日夢のたぐひかもしれぬ」という一文で、『死者の書』は締めくくられている。しかし、日本古来の神話世界、そして奈良時代の仏教において、憧憬の的であった「極楽浄土」が混ざり合った「死者の国」は滅びることはない。しかも、滋賀津彦と郎女の魂の交感を描いた『死者の国』という物語世界は、作者の折口自身の手を離れ、多くの人が生まれ、死に、時に何かのきっかけで死者はよみがえりながら、永遠に続いていく。直接的な関連はないが、折口による未完成の草稿・『死者の書 續篇』(1948・昭和23年)も同様に、今も終わることなく、我々が生きる世界とは別の世界で、壮大な物語を紡ぎ続けているように筆者には思えてならない。
参考文献
死者の書、 山越しの阿弥陀像の画因、 わが師 折口信夫、 新潮日本文学アルバム 折口信夫、 折口信夫の記、 折口信夫伝 その思想と学問