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民俗学者の折口信夫が記した「死者の書」に勇気づけられた劇作家の加藤道夫

内閣府自殺対策推進室・警視庁生活安全局生活安全企画課の調査によると、平成27年の日本国内の自殺者の総数は24025人。その内、男性が16681人。全体の16.9%が40代で4069人、次いで16.6%の50代が3979人、16.5%の60代が3973人、14.4%の70代が3451人。自殺者の59.6%が無職。自殺の原因・動機として、残された遺書などによると、健康問題が12145人、経済・生活問題が4082人、家庭問題が3649人、勤務問題が2159人という。

民俗学者の折口信夫が記した「死者の書」に勇気づけられた劇作家の加藤道夫

ぼろぼろになるまで読んだという「死者の書」に勇気づけられた加藤道夫

各人各様とはいえ、人が自殺を決めたとき、衝動的に行うものなのか。または自分の身の回りの整理、身内や友人知人への挨拶、そして遺書の執筆など、入念な準備を整えてから決行するのか。または、どうにか思いとどまって、生き続ける道を選ぶのか。1953(昭和28)年12月22日に首つり自殺をした劇作家・加藤道夫(1918〜1953)はかつて、前回記した折口信夫の『死者の書』(1943年)に自身の生を支えられていたという。

死してよみがえった滋賀津彦、そして仏道に帰依した清純無垢な藤原南家郎女との神秘的な交わりを描いた『死者の書』の中で、加藤が「後半の數頁が落ちて無くなつてゐる」ほど読みふけったのは、郎女が海の中道を歩く夢を見た箇所だった。

加藤道夫が特に読んだ箇所とは

郎女の足が踏みしめる渚の砂は、いつしか白く輝く玉になっていた。郎女は拾おうとするが、手のひらに置いた途端、砕けて、風に散っていく。ようやく白玉を拾い上げた途端、郎女は波に打ち倒されて、海に沈む。

  水底(みなぞこ)に水漬(みづ)く白玉なる郎女の身は、やがて又、一
  幹(ひともと)の白い珊瑚の樹である。脚を根、手を枝とした水底の木。
  頭に生い靡くのは、玉藻であった。玉藻が、深海のうねりのままに、揺れ
  て居る。やがて、水底にさし居る月の光り−。ほっと息をついた。まるで、
  潜(かず)きする海女が二十尋(はたひろ)・三十尋(みそひろ)の水底
  から浮び上がつて嘯(うそぶ)く様に、深い息の音で、自身明らかに目が
  覚めた…

郎女が見た夢は、死して後、再びよみがえったことを意味しているのだろうか。

加藤道夫の生い立ちと劇作家への道のり

加藤道夫は、著名な地質学者・加藤武雄の三男として生まれた。七人兄弟のうち、男の兄弟はすべて父同様、理系の学校に進んだが、加藤は受験に失敗し、慶應義塾大学の法科に進んだ。英語が得意だった加藤に、両親は外交官の道を期待していたが、加藤は文学や演劇に関心を持つようになり、文学部に独断で転じたという。それは幼少期から、大変な恥ずかしがり屋であったにもかかわらず、俳優に憧れていたこと、そして自宅の庭の片隅で、印象に残った映画の1コマを何時間も演じるなどのひとり芝居をしていたということから、ある意味「必然」の選択だったのだろう。

そして後に俳優・演出家となった芥川比呂志、小説家で文芸評論家の中村真一郎らとの交わりの中で、加藤は劇団を組織し、フランス語劇を演じるようになっていった。

戦地で学んだ死と生

そんな加藤は26歳となった第2次世界大戦末期の1944(昭和19)年に、通訳官としてフィリピンのマニラ、インドネシアのハルマヘラ島、ニューギニア西部のソロンに赴いた。そこで彼はマラリアや栄養失調で死に瀕することになる。その際、彼はジャン・ジロドゥーの戯曲、アルチュール・ランボーの詩集、そして折口信夫の『死者の書』を常に持ち歩いていたという。殊に『死者の書』は加藤にとって、「あの死のファンテジイ(原文のまま)は不思議に僕に安堵感を與へるものだつた。或ひは僕は『死者の書』を通して死の世界と親しく交感し合つてゐたとも言へよう。僕は目前に死と向ひ合つてゐたが死への恐怖は殆どなかつた…(略)…夢想と幻想だけが衰へた僕の生を意味づけるものだつた」とかたった。

幸いなことに加藤は、敗戦後もなお、通訳官としてアメリカ軍との交渉に当たることとなり、特別に食料を支給されていたため、無事、生きながらえることができた。

死者の書に勇気を貰い、生きながらえ帰国したが…

『死者の書』を携え、1946(昭和21)年にようやく帰国した加藤を迎えた東京は、一面、焼け野原だった。そればかりではなく、加藤の目には、人の心はすさみ、うらぶれ、巷には悪と禍が満ちているように見えていた。加藤自身の体も、当時の食糧事情の悪さからくる栄養失調に加え、戦地から持ち帰ったマラリアに苦しみ、しばらくは何もできない状態だった。

『死者の書』に「生」を鼓舞されていた加藤が自宅で首つり自殺を決行したのは、自身の体はもちろんのこと、日本そのものも敗戦の傷が癒え、だんだんと幸福に向かいつつあるように見えた、終戦から8年後の1953(昭和28)年、彼が35歳の時だった。

三島由紀夫が述べた加藤道夫の人となり

彼の死を振り返り、「戦争に殺された詩人」、そして「加藤氏ほど心のきれいな人を見たことがない」と述べた三島由紀夫(1957年)によると、「理想の劇場」を夢見ていた加藤を取りまく演劇界の「明治の開化時代と同じ」、「何か1つ語学が達者で、外国の本をたくさん読み」、「しじゅう芸術的不満に煮立ってをり」、「否定の情熱を弁当箱にのやうにぶらさげ」「外国の演劇理論や演技理論を丁寧に祖述し」、「しょつちゆう青年層にむかつて媚態を呈して」いる状況、そして加藤自身の「戦後の貧窮」、「肋膜炎、肺患」などによって、「音楽におけるライトモティーフのやうに戦争と死が底流をなして響き、結局、もうすこしで光明の見えさうな事情までもが、彼を死へ追ひやるための緊密な伏線として働いた」と断じている。

加藤が死を選んだ1953年は、加藤が親しかった作家の堀辰雄が肺結核で5月28日に、そして折口信夫が胃がんのために9月3日に亡くなった年でもあった。

その他にも沢山の人物が加藤道夫について述べている

演劇評論家の野村喬(たかし、1930〜2003)は、加藤の妻で女優の加藤治子が「死ぬ前の半年間、彼が別人のようになった」と回想していたことを挙げ、「幽明境を異にした堀辰雄・折口信夫の死者の世界とすでに交わっていたのではなかろうか」と推測している。

また、医学者で精神科医の大原健士郎(1930〜2010)は、加藤の「僕には職業的劇作家としての方法論はない。たゞ理想の演劇が脳裡にあるだけである。僕の理想の演劇は常に僕をはげますと同時に、僕を挫折させる。僕の作品は、すべて、その意味では幻滅の記録に過ぎない。そして僕は幻滅の度に、改めて勇気を振ひ起すやうに、シェイクスピアやクローデルやジロゥドゥや、その他の偉大な作品達を讀み直す」(1952年)という文章に着目し、加藤の健康面の問題、ニューギニアにおける死の体験(心的外傷)に加え、「彼の繊細で良心的な精神は、理想や夢を求めてあがいたが、それとはあまりにも懸隔した現実の前に反応性うつ病の状態を生じ、生きてゆくことに挫折したものと思われる」(1972年)と指摘している。

しかし、死を選ぶ直前の加藤は、「来年」の1954(昭和29)年が人生3度目の年男になることを思いながら、「生來神経の弱い僕などは來る日も來る日も唯書かねばならぬと云ふ強迫観念に取り憑かれてゐる。健康の状態が書くことを拒み始めると一種のノイローゼに襲はれて、完全な無為の状態が來る…(略)…せいぜい健康になつて、のんびり落伍しないやうに努力したい」と「抱負」を書いてさえいる。また12月10日には旅先の伊豆・嵯峨沢温泉から、妻の治子に「来年は必ずいいことがあるように努力します」と、手紙を書き送ってさえいた。加藤と親しかった劇作家の矢代静一(1927〜1998)は、「こんな思いやりのある手紙を無理して書くことはなかった。だから、死に急ぎしてしまったのだ」と、正直な感情を吐露している。

時期的に重なる加藤道夫以外で自殺を選んだ当時の著名人

多くの日本兵が飢餓と伝染病のために命を落としたニューギニアで、加藤はせっかく生き延びることができたにもかかわらず、「決行」した。12月22日の夜、「枕もとに食パンと歯磨き粉があった」、そして「床に坐って足を投げ出したような恰好で、ほんのすこし腰が浮いているような状態」で死んでいた加藤の真意は、誰にもわからない。「もしもう少し生きのびて、この状態を克服し、客観視する時が來たならば、この夢想家は、戦争と死のおそるべきドラマを書いたであらう」と書き記していた三島由紀夫もまた、1970(昭和45)年11月25日に、市ヶ谷の自衛隊駐屯地(現・防衛省本省)で割腹自殺を遂げた。

加藤道夫や三島由紀夫のような著名人のみならず、必ずしも家族や友人・恋人に限らなくとも、自殺した人を何らかの形で「知っていた」、後に残された人々の多くは、三島の言葉のように「もしもう少し生きのびて、この状態を克服し、客観視する時が來たならば…」と、一生、悔恨の念、或いはトラウマを持つことになる。三島は「決行」の前に、盟友の加藤を失った折に、自身の心に強くわき起こった喪失感を、後に残された人々も同じように持つことになることを想像しなかったのか。仮に思い浮かべていたとしても、今、ここで、自分は死なねばならない!という強迫観念のほうが強かったのだろうか。

加藤を勇気づけた『死者の書』の著者である折口の生い立ち

加藤を勇気づけた『死者の書』の著者である折口は、大阪・西成郡木津村(現・大阪市浪速区)の裕福な家に生まれた。しかし異母兄弟と暮らす複雑な家庭環境、父親の死、短歌に惑溺しつつも学力が低下し、ついに中学校を落第するという挫折体験ゆえに、思春期に自殺未遂を繰り返していた。しかしあるとき、幼少期から彼をかわいがってくれていた叔母に誘われ、河内や大和を旅して回るうちに、折口は「泣きべそをかきながら、暮れ方の道を独りべたべた歩いてゐる、さういふ気持ちが、私につきまとふやうになった」。

果てしなく孤独に歩き続ける「旅の心」が萌すようになってから、いつしか折口の心から、自殺念慮は消え失せてしまったという。それゆえ、1927(昭和2)に自殺した芥川龍之介に対して、「あんなに死にたいならば、あんなに死に栄えのする道を選ばなかつたらよかつたと思ひます。世の中には死にたくつても、それを以て死んだ、と思はれることの堪へ難さに生きてゐるものが、沢山あるのです」(1928年)と語っていた。

しかし折口は、自殺の衝動を克服した後であっても、弟子の岡野弘彦に「楽しいおとぎ話」でもするように、時折、「洋傘をさして高い山腹の道を歩いていると、このまま遥かな眼下に向って断崖を一気に飛び下りてしまえば、ふわりと空を飛んでゆけるような気がして、耐え難くなり思わず身を投げ出してしまう。途中の岩の出っ張りに引っかかって身の動きがとれなくなり、そのうち日が暮れて、一晩中その場に洋傘をさして立ったまま夜を明かした。遥か麓の村で死者を葬ってでもいるのか、一晩中ちんちんと鉦を叩く音がしていた」などと「死の世界に誘い込まれる魅力」を語ることがあった。

最後に…

また、愛の告白を拒んだ弟子の加藤守雄に対し、既に初老の域に達していた折口は、「ぼくが若かったら自殺していただろう。だが、ぼくの年ではそれもできない」とつぶやいたという。死の甘美な誘惑を受けて、それに身を任せてしまいたいと思っても、死ぬことができない。死ぬ勇気も持てない。そして死ぬための「大義」もない。そんな折口は芥川や加藤、そして三島のように自殺を選ばず、死ぬまで「生きる」ことを選んだのだ。

今を生きる我々の大半は、必ずしも、生きることの幸せや喜びに満ちあふれた日々を過ごしているわけではない。「死にたい!」と叫ばずにはいられないほど、辛い日々が続いているかもしれない。しかしそこで自殺を選ばず、あえて「生きる」のであれば、「生」と「死」の対立的な境界線を設けない形で自分の命を静かに燃やし続けたいものである。さながら、加藤が何度も読みふけった、『死者の書』に描かれた、藤原南家郎女が見た夢のように。

参考文献:死者の書、 わが師 折口信夫、 旗手たちの青春 あの頃の加藤道夫・三島由紀夫・芥川比呂志、 折口信夫の記、 新潮日本文学アルバム 折口信夫

ライター

鳥飼かおる

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