筆者が執筆した記事で「無縁仏」という言葉を使う場合、引用文以外は極力括弧を付けて書き、更にはできるだけ「どのような意味合いか」の注釈を付けるようにしている。
なぜ、このような表現にするかというと、この「無縁仏」という言葉は、実は時代的宗教的な背景、あるいは時と場合によって、かなり違う意味合いになってきた歴史があるからである。更にいうと、そもそも本来の仏教に由来する概念ですらない。
無縁仏は「供養する方がいない死者」という意味だけではない
現代日本では「無縁仏」という言葉は主に「いわゆる『墓を守る身寄り』のない死者」の意味で使われる。しかし、それは決して普遍的でも絶対的でもなかったのである。
ところが、現実ではこの「『墓を守る身寄り』のない死者」という意味の「無縁仏」イメージが、絶対化してしまっているきらいがある。その結果、この意味合いでの「無縁仏」概念が呪縛となり、様々な抑圧やトラブルの要因になってしまっている面も、少なくない。
このことは、一度何らかの形できちんと問い直されることが、必要なのではないか。そう考えているからこそ、筆者は「無縁仏」という言葉を扱う際には、「どのような意味合いか」ということを、極力明らかにして使うよう心掛けている。
無縁仏と似た「アジクェーグヮンス」とは?
ところで、そうした現代日本的な意味の「無縁仏」概念と、共通点もあるが少し異なる概念が、沖縄には幾つか伝えられている。その概念とは、「イナググヮンス」や「アジクェーグヮンス」、「ウヤヌフチュクル」などである。
「イナググヮンス」と「ウヤヌフチュクル」については、長くなるためまた稿を改めて書こうと思うが、「アジクェーグヮンス」は、挙げた中でも特に、現代日本で使われる「無縁仏」概念との共通点が多い。そのため、ここで書こうと思う。
供養する方がいない位牌を一時的に親戚等に預けることを言う
アジクェーグヮンスは、いわゆる標準語では「預かり位牌」などと呼ばれる通り、「預かられている位牌」や、その位牌の主である死者を指す。
沖縄の伝統的な位牌は、いわゆる「先祖代々の霊」を祀るものである。その位牌が、なぜ「預かられる」のか。それは、ある家の後継者がない場合、あくまで一時的にという名目だが、親戚などの家が位牌を預かるしきたりである。現代日本、いわゆる本土でいえば、「無縁仏」となった家の祭祀を、親類が引き受け、「無縁仏」でないように扱うような仕組みである。
但し、実際には何世代にも渡って預かられるケースも多く、中にはそのアジクェーグヮンスの主であった家についての情報が、余り多くは現代に伝わっていないこともある。
最後に…
このアジクェーグヮンスは、一般的にその預かっている家の仏壇に祀られる。多くは、仏壇に向かって右側にその家の位牌が、左側にアジクェーグヮンスが安置される。但し、アジクェーグヮンスの主が、預かっている家よりも「格上」の家とみなされている場合、例えばアジクェーグヮンスを預かっている家の先祖が、アジクェーグヮンスの主の家から「分家」した場合などには、アジクェーグヮンスの方が、向かって右側に置かれるケースも多々ある。
参考文献:トートーメーの民俗学講座―沖縄の門中と位牌祭祀