日本人になじみ深い和歌、例えば小倉百人一首の中納言家持(大伴家持)を紹介する。
「鵲の渡せる橋に置く霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける」
(七夕の日、牽牛と織姫を逢わせるために、かささぎが翼を広げて渡した橋のように見える宮中の橋に霜がおりているのを見ると、夜がずいぶん更けたのだなあと思わされる)
これは五・七・五・七・七、すなわち合計31文字で構成された短歌である。和歌のうち、短歌が最も多く詠まれたものだが、異なった文字数・構成で歌われた歌もある。「ほとけの足の石の歌」と書いて、「仏足石歌(ぶっそくせっか)」と呼ばれるものだ。
奈良の薬師寺にある国宝・仏足石に残る仏足石歌21首
現在残る仏足石歌は、奈良・薬師寺内の仏足堂に収められた国宝・仏足石(ぶっそくせき)のそばに立つ仏足石歌碑に刻まれている21首のみである。
短歌とは異なり、五・七・五・七・七・七体の構成だ。経年劣化により、2首欠損しているが、歌の内容は、仏の徳を称えるものが17首、現世の世の無常、生死の道に惑う心をいさめ、仏道を勧めるものが4首である。そして、それらの歌には、和歌をつくるにあたっての「テクニック」として知られる、枕詞・序詞・掛詞・対句などは用いられておらず、ある意味素朴でわかりやすいものとなっている。
また、五・七・五・七・七・七体は仏足石歌のみならず、古事記・風土記・万葉集に少数ながら存在し、施頭歌(せどうか)とも呼ばれている。その構成が取られているのは、最後の五・七を2回繰り返した、または2人で唱和・問答した歌が存在していたためだと考えられている。
例えば、『古事記』中巻に、伊須氣余理比賣(いすけよりひめ)と大久米命(おおくめのみこと)の交わした歌がある。
「あめつつ ちどり ましとと など鯨(さ)ける利目(とめ)」
(雀、せきれい、千鳥、大勢いるかもめのように、あなたはなぜ、入墨をして裂けた目をしているのか)
「をとめに 直(ただ)に逢はむとわが鯨ける利目」
(娘さんにじかにお逢いしたいと思って、裂けた大きな目をしているのです)
仏足石はどのように伝わったか
奈良・薬師寺の仏足石とは、正面の高さ69cm、幅108cmで、六面体をなす角礫岩(かくれきがん)に、右足は48cm、左足は49cmの大きさで、仏の足の裏を線刻し、更に石の側面四方に楷書体の漢文が刻まれているものだ。仏足石には、中央に輪宝、五指の間に金剛杵、指頭に卍花、踵に三宝標と法輪の瑞祥文が添えられている。
そしてこの仏足石の由来は、7世紀半ばに、インドの鹿野苑(ろくやおん。釈迦が初めて教えを説いたところ)で、中国の国使・王玄策(おうげんさく)が転写したものを、日本の留学僧・黄文本実(きぶみのほんじつ)が長安の善行寺で転写し、平城京の右京四条一坊の禅院(寺院名不明。薬師寺か)に伝えた。
それを天武天皇の孫・文室真人智努(ふみやのまひとちぬ)(智努王)が752(天平勝宝4)年に、亡くなった妻・茨田郡主(まんだのぐんしゅ)の追善供養のため、絵師・越田安万(おだのやすま)に写させ、石工の某麻呂らに刻ませたものだという。更に漢文には、この仏足石が人々にもたらす功徳も書き記されている。また、この碑文の周囲には散花、飛雲、執金剛神(しゅこんごうしん・仏法の護法善神)、釈迦如来、龍、岩山、雲など、仏教にまつわる様々なモチーフも線刻されている。
仏の足・仏足石を称えるために記された仏足石歌
一方、仏足石を称えるための歌が記された仏足石歌碑の高さは194cm、幅は48.5cm。文字は楷書体だが、漢文ではなく、漢字の意味を意識せず、音(おと)、のみを当時の「やまとことば」に当てはめた万葉仮名で記されている。
歌の例として、仏の徳をたたえるものを紹介する。
「大御足跡(おほみあと)を見に來る人の去(い)にし方
千世の罪さへ滅ぶとぞいふ 除くとぞいふ」
(仏足石を拝みに来る人は、過去の長い間の罪までも消滅するという、取り除くという)
世の無常にとらわれることを諌め、仏道精進を勧めるものも紹介する。
「人の身は得がたくあれば 法(のり)の爲(た)の
因緣(よすが)となれり 努め諸〻(もろもろ) 進め諸〻」
(人の身に生まれ、悪道を離れることは難しい。稀に人の身に生まれることは、仏道に入る機縁である。衆生よ、仏道に努めよ、励めよ)
歌の作者の名前は残っていないが、薬師寺に仏足石を作らせた智努王のみならず、複数の歌人によるものであるという説が有力だ。
仏足石歌で、最後に7字加わるのは、仏を称える、または衆生に仏道を勧めるにあたり、五・七・五・七・七の31文字では言い足りない主張、繰り返したい思いがあったこと、そして「行道(ぎょうどう)」と呼ばれる、仏足石の周囲を巡って祈りを捧げる儀式の中で、唱和・掛け合いがなされていたためではないか、と考えられている。
そもそも何故「仏の足・仏足石」が崇拝されていたのか
そもそも何故、「仏の足」を刻んだ石が崇拝されていたのであろうか。
仏の徳を象徴するのみならず、芸術作品としての価値も高い、多種多様な様式でつくられてきたものとして知られるものは仏像である。しかし釈迦入滅後500年程は、「お釈迦様そのものを、形にするのはもったいない」として、以下の4つを礼拝していた。
(1)塔(釈尊の墓・涅槃の姿をあらわす)
(2)菩提樹(釈尊の成道(じょうどう)をあらわす)
(3)法輪(釈尊の説法の姿をあらわす)
(4)仏足石(釈尊がこの世に降臨された姿をあらわす)
そこで「足」が信仰の対象であったのは、仏教が誕生したインドにおいては、古くから、足は人間の体のうちで最も不浄とされ、本来信仰の対象となりえないものを信仰する、その最大の敬意、絶対的信仰のあかしとする、「接足作礼(せっそくさらい)」という風習があったことに起因しているという。
また釈迦には、凡人と異なる32種の相があり、足には例えば、「大地に高低があろうとも、密着し、平等に接するように、人々にも分け隔てなく救済しようとする仏の慈悲をあらわす」という、「足下平満等触相(そくげひょうまんとうそくそう)」などの6相があるとされていることも、理由として挙げられる。
万葉集に残る仏足石歌には「世間の無常を厭ふ2首」が残されている
仏足石歌が特筆的であるのは、奈良時代の代表的な文芸作品に『万葉集』があるが、『万葉集』では全般的に現世享楽を表現し、現実的で楽天的な側面を多く有した歌が多い中、仏足石歌では、当時の日本において、大陸の最先端の文化・学問であり、個人の苦しみを救済すると共に、国家・社会全体の平和を護持する宗教であった仏教をテーマにしているところである。しかし、ほんのわずか、『万葉集』の中にも、例えば巻16に「世間の無常を厭ふ歌 2首」として、以下のものがある
「生死(いきしに)の二つの海を厭はしみ 潮干(しほひ)の山をしのいつるかも(3849)」
(生死の間で揺れ動くこの世が嫌になっているので、あの世のことを思っている)
「世間(よのなか)の繁き借盧(かりいほ)住み住みて 至らむ国のたづき知らずも(3850)」
(わずらわしいこの世の仮の宿に長く住んでいるので、いずれ死ぬあの世がどのようなところなのか、わからない)
仏の足・仏足石が普及しなかった理由とは
仏の功徳が万葉歌人に積極的に詠まれなかった理由として、日本文学者の間中冨士子は、以下の理由を指摘する。
聖武天皇の天平時代(729〜648)、孝謙天皇の天平勝宝時代(749〜756)の奈良では、続々と大寺院が建立され、そこに安置されるべき仏像が造られた。写経も盛んに行われた。寺院の落慶供養や、東大寺をはじめとする、巨大で壮麗な仏像の開眼供養など、盛大な仏事法要が営まれていた。
しかしそれらは、皇室や国家によって保護された貴族仏教であって、一般民衆にとっての精神的糧として、その教えによって救済されることはなかった。哲学的な仏教の教理や思想が人々の心の奥深くまで浸透し、更には文学作品に反映されるまでには、当時はまだ、日が浅かったことを挙げている。
しかし、仏教が日本人の間に広がっていくうちに、いつしか、仏足石を通して仏を称えたり、衆生が仏道精進するように勧める歌が詠まれたり、またはそうした歌を、仏足石を前にして、唱和する信仰形態そのものも、忘れ去られてしまった。奈良の都のみならず、他の地域の寺社においても、仏足石への礼拝、歌を作る習慣が広がり、継承されることはなかった。それは「足」をかたどったものよりも、時代ごとに形態を変化させて来た仏像、または後に興隆する曼荼羅図、仏画などを礼拝することが「当たり前」のことになってしまったことも大きいだろう。
薬師寺の仏足石歌碑は、平城京が廃れ、世が乱れた際、寺から持ち去られた。近在の柏木村の田圃の橋となっていた。江戸初期に薬師寺に戻した。寺の西の草むらの小池に埋もれていたのを寛永末期に掘り出した…などの言い伝えがある。いずれにせよ、ある意味打ち捨てられた存在となっていた。
国宝としての仏足石・仏足石歌を見ることができるのは現在では薬師寺のみ
我々はもはや、「国宝」としての薬師寺の仏足石碑、仏足石歌碑を見ること以外で、「仏足石歌」を知ることはできない。
当時の奈良人と我々が「同じ」感覚になることも難しいだろう。「仏教」が今日の仏教とは異なり、当時の日本人にとっては見たことも聞いたこともない、考えたこともなかった、それゆえにただただ驚異に満ちた華麗な神秘の世界を提示していたことは事実である。参集者が唱和したとされる仏足石歌そのものも、我々が考える以上の「意味」「力」があったことは間違いない。当時の人々はまだ、ことばに言い表すことには絶対の力がある。あらゆる事物は、ことばが発せられたとたん、発せられたことば通りになるという、仏教伝来以前の日本の中で信じられて来た神々や魂のありようを反映した、言霊信仰を強く信じていた。それゆえ、はるばるインドから中国を経て、奈良の都にたどり着いた仏足石を拝すること、そして仏道に精進することの「驚異」は、我々の想像を超えたものがある。そうした「信仰」を持つことができた奈良人は、理屈をもって「常識的」にものを考えてしまうことが当たり前になってしまっている現代の我々よりも、はるかに幸せで、「仏の世界」に近かったと言えるのではないだろうか。
参考文献:日本古典文学大系 3 古代歌謡集、 古事記 修訂版、 万葉論集大仏造営から仏足石歌まで、 古寺巡礼奈良〈15〉薬師寺 (1980年)、 歌謡 (古代文学講座)、 天皇の歴史(2) 聖武天皇と仏都平城京