ヨーロッパからロシアにかけてカタコンブともカタコンベとも呼ばれる地下墓地が存在する。なかでも600万体以上ともいわれるカタコンブ・ド・パリの地下墓地(納骨堂)の壁には通路のいたるところに本物の髑髏が剥き出しではめこまれ、歩いている人々を震え上がらせている。心霊スポットや廃墟が流行る昨今だが、これほど波動値の高い聖地巡礼は他に類を見ないだろう。
現在もカタコンベを探索する人がおり、その一定数は行方不明となっている
観光客が歩くことのできる範囲はほんの1.9キロメートル程度。柵で塞がれた壁の先には未知の通路がいくつもあり、その全貌は未だに解明されていない。何人もの人がこれまで行方不明となりカタコンベ内で命を落としている。もっとも古い犠牲者の一人であるPhilibert Aspairtは1793年にカタコンベ内で消息を絶ち、11年後の1801年に遺体で発見された。彼は発見されたその場所に葬られ、そこをついの住み家としてしまったわけだ。いったい何が人々を地下へと駆り立てるのだろうか。
私は高校から大学時代にかけてケービング(洞窟探検)に熱を上げていた。東京都下の奥多摩には小袖鍾乳洞群があり、観光化されていない穴ばかりが20以上もある。装備がなければ命を落としかねない十数メートルの縦穴もある。穴の中へ潜って行くと、何か未知のものと出くわすのではないかという不安と興味と期待の綯い交ぜになった感情に満ちてくる。それはちょうど洞窟の中で松明を灯しながら宗教の教場として使用していた先人たちの気持ちともつながるし、レジスタンスの秘密拠点としてしていた活動家の思想ともつながる。
深く考えるという行為そのものがまさに潜ってゆくことなのである。好奇心旺盛なフランス人がカタコンブに魅了されるのも十分理解できる。
カタコンベを探索する目的とは
先のPilibert Aspairtは病院の門衛だったそうだが、その病院の地下はお隣にあったカタコンベへと通じていた。彼は病院の地下からカタコンベへと独りで歩いて行ったのである。その動機がなんであったかは誰も知らない。単なる好奇心であったのか、金銭目的だったのか、それとも誰かを追いかけて行ったのか、目に見えないものを追いかけていたのか・・・・。
『探検とは知的好奇心の肉体的表現である』という人がいた。まさに彼はある種探検家であったのかもしれない。彼がベルトに掛けていた病院のキーホルダーが彼の身元を証明できたことは幸運である。彼の名はカタコンベで亡くなった名誉ある探検家という称号を手に入れたのであるから。外国では彼にまつわる小説やゲームまであるらしい。
人間は絶えず潜ってゆく。そして死者は眠ってなどいない。そこで永遠に考え続けているのである。