日本の冠婚葬祭業界、特に葬儀やそれに関連する業界の人々には、しばしば、「素晴らしい日本の伝統的美風」のような言説に頼りがちな傾向がある。しかしながら、こうした「素晴らしい日本の伝統的美風」言説、特に葬儀及び関連の業界でよく語られる説には、歴史的に見ていくと、若干首をかしげてしまう点が多い。
例えば「遺体を火葬した際の、遺族による骨上げ」を、「他の国や民族にはない、素晴らしい日本の伝統的美風」であるとする言説も、その一つである。
そもそも火葬が一般的な国でも骨揚げは非一般的
実際、様々な本を読むと、現在火葬がそれなりに取り入れられている国でも、そうした「遺族による収骨」のしきたりは、非一般的である。なぜなら、一つには海外では、遺骨が原型を留めず粉末状の灰にするのが主流だからである。しかし、それが現在の日本で一般的な、遺骨の原型をより留めようとする火葬技術や、それによって比較的新しい時代に可能となった、現代型の「骨上げ」のしきたりに比べ、「故人への愛情や敬意がない」と、一概に決め付けることはできない。
先に、現代型「骨上げ」は比較的新しい時代に可能となったしきたりである、と書いたが、これは島田裕巳氏も指摘していることである。そもそも近代以前には、火葬は決して一般的な葬法ではなく、しかも時にはタブーとされることも、決して少なくなかった。
骨揚げをするためには、一定の火葬技術が必要
更に、島田氏はそうした前近代の火葬技術では、遺骨は原型を留めず粉末状の灰になった、と指摘している。実際、この島田氏の指摘を裏付ける記録は少なくない。例えば鎌倉時代、飛鳥時代の女帝持統天皇の墓が盗掘され、遺骨が遺棄されたケースでも、犯人が捕らえられても遺骨の捜索がされなかった。理由は、一つには女帝の遺骨は犯人が捕らえられる前、既に土に還っていたと考えられるからである。
中背の天皇と火葬といえば、まさにこの、「当時の火葬技術では、遺骨は原型を留めなかった」ことを前提とした、独自の葬法が行われていたことも、注目に値するだろう。
最後に…
平安時代の天皇や上流貴族の中には、亡くなって火葬された際、拾える遺骨だけを収骨して他の場所に埋葬・納骨し、拾えないほどの骨片になった遺骨はそのままそこに埋め、そこを「火葬塚」とする葬法によって葬られた人物もいる。この「火葬塚」は、先に収骨された遺骨が埋葬された“埋め墓”よりも重要視される“参り墓”であった。
近世以降、特に近畿地方の村落部で盛んになった葬法「両墓制」は、遺体を埋葬した“埋め墓”よりも、遺体のない“参り墓”が丁重に祀られるものであった。中世の貴人たちの「火葬塚」の風習は、この「両墓制」のルーツの一つである可能性も、ないとはいえない。
参考文献:日本葬制史、 墓は、造らない 新しい「臨終の作法」