「近世の日本では、葬儀は仏式で行われた」ーーいわゆる教科書的な日本葬制史では、このようにいわれている。
しかしながら、近世と一言でいっても、初期は戦国時代の末期にあたり、そこから明治維新に至るまでの、300年近い長い年月が流れている。また、当時は身分的・地域的な点や、信仰する宗教宗派の違いによっても、非常に様々な差がある社会でもあった。当然、葬儀習俗や制度についても、決して一概にいうことはできないのである。実際、近世とされる時代に亡くなった歴史的人物の中にも、仏式以外の葬儀で弔われた人物は、複数いた。
黒田官兵衛はキリスト教式の葬儀が執り行われた
例えば、近世初頭の人物の例としては、現在の福岡県を統治した大名の黒田如水(官兵衛)がいる。彼はキリシタン大名でもあり、「シメオン」という洗礼名もあった。黒田如水(官兵衛)は、徳川幕府が成立した翌年の1604年に亡くなっている。
当時は、次第にキリスト教への取り締まりが厳しくなってきており、黒田家のような有力大名といえど、キリシタンであることを以前ほどはオープンには、できなくなってきていた。そうしたこともあり、如水の葬儀の際には、ある工夫がされた。それはどういうことかというと、葬儀自体をカトリック式でやり、墓は、仏式で現在の福岡市内の崇福寺に建てたのである。
キリスト教が禁止でなかった、あるいは、取り締まりが厳しくなる前の時期のキリシタン大名が、カトリック式の葬儀をどのように行ったかについての詳しい記録は、その後のいわゆる鎖国時代の弾圧のためもあり、ほとんど残されていない。そして如水の場合も、その例に漏れない。しかし、彼の葬儀は、その後の仏式の埋葬と矛盾しないようなやり方で、行われたことだろう。
坂本龍馬は神式での葬儀だった
また、幕末のいわゆる倒幕の志士たちの中にも、仏式ではなく神式の葬儀によって弔われた人物がいる。特に幕府と戦って、戦死や処刑、幕府派や対立勢力による暗殺などの悲劇的な死を遂げた人物のために、そうした神式の葬儀がよく行われた。坂本龍馬も、神式葬儀で弔われた人物の一人である。
龍馬の葬儀は、彼が暗殺された京都の近江屋で行われたが、仏式でいう法要に該当する儀礼は、同じく京都の霊明神社(現在の京都霊山護国神社)で行われ、墓もそこに建てられた。なお、霊明神社での倒幕の志士たちの葬送や慰霊祭は、1862年が始まりである。
このように、仏式以外の葬儀によって弔われた近世の人物も、確かにいたのである。現代では忘れられがちだが、そもそも歴代の徳川将軍たちからして、神仏混淆式の葬送儀礼によって弔われていたのだった。特に初代家康と3代家光の場合は、それが顕著であった。
参考文献:あなたの知らない京都府の歴史、 福岡地名の謎と歴史を訪ねて