兄は小中学校では体操を、高校では水泳をこなし東北大会にも出場したアスリートでしたが、高校時代に不明の高熱が出て寝込んだことがありました。それから数年が立ち、仕事を忙しくこなす兄が体調を崩し、身体に異変がおこったのです。体調不良の一因として、高校時代の不明な高熱があったのではないかと診断されました。
心臓に疾患が出始め、血流の不良や呼吸の乱れなど、さまざまな症状が現れました。そして、仕事をしながら、長年に渡り透析療法を受けることに…。家族に支えられながら闘病の入退院を繰り返し、還暦を迎える年の2014年4月1日に帰らぬ人となりました。
多趣味だった兄が特に好んだのが音楽だった
兄は六人兄弟(男5人・姉1人)の5番目の四男。多趣味の人でもありスポーツの他には小説や映画をこよなく愛し、ギターもピアノも弾いていました。
60年代後半から70年代初めに青春時代を過ごし、ビートルズやボブ・ディラン、スティービー・ワンダーなどの洋楽はもとより、特にシンガーソングライターとしてオリジナル・ソングを唄っていた岡林信康、吉田拓郎、あがた森魚などよく聴いて、彼らの歌をギターで弾き語りをしていました。その頃からでしょうか、詩を書くようになったのは。思春期に一度は通る道なのでしょう。自分探し的な文章や詩、言葉を大学ノートに書き留め、いつしかその言葉を「音楽」として表現するようになっていました。
感謝を込めて残された数々の「詩」
高校時代に始まった「シンガーソングライター」的な素養は、社会人になってからも継続し、それは闘病中にも継続していました。数知れない「言葉」は「自分」のことから始まり、特に発病してからはコツコツと「作品(言葉=詩)」を書き残し、それぞれは、自分のつながりのある家族や兄弟、親しい友人に宛て「感謝」を込めて残されていました。
書き留めていたことは知っていました。が、葬儀の当日に、自分で撮影した家族写真や、書き残した詩集(大学ノート)や、自分の歌ごえが届けられました。しかし、それは亡くなったからではなく、あくまでも今、生きているからこそ、日々平常の生活を過ごしているからこそ、お世話になった方々に感謝を込めて「御礼」をしたい。只々、その一心で。決して終活の為ではなく、素直な感謝の気持ちを書き残したかったのでしょう。兄の存在が、家族や兄弟みんなの、親しい友人たちの人生を豊かにしてくれました。そして兄が届けたかったのが「感謝のお別れ会」だったのでしょう。