土葬された遺体を白骨化後に改めて正式な墓に埋葬する、いわゆる「改葬」の風習が、古代末期〜中世初期の日本にもあったという説がある。この時代、要人の墓が小規模なものになっていくことによって、遺体の容積を小さくすることが必要となった。そのために正式な墓には、白骨化して容積が小さくなった遺体を埋葬することが最適である、とされたのだという。
実際、当時の支配層の人物の墓には、改葬の痕跡のみられるものもあるという。そしてこの「遺体の容積を小さくするための改葬」は、実は大幅に後の時代である、江戸時代末期〜近代初期にも、意外な場所で存在していたという報告がある。
吉原遊女に行われた改葬
それは、現在の東京都荒川区にある浄土宗の浄閑寺である。浄閑寺には、かつて近隣にあった吉原遊廓で、いわゆる吉原遊女としての年季(契約期間)が明ける前に亡くなった女性(以下「吉原遊女」)を、彼女らの出自や宗派を問わず埋葬した歴史がある。そしてまさに、この吉原遊女の遺体の埋葬の際に、改葬が行われていたというのである。
戦前から戦後に活躍した作家 吉屋信子は、1964〜65年に読売新聞で、近現代のいわゆる廃娼運動に関して、様々な立場の当事者だった人々や彼らの遺族たちに多くを取材したルポルタージュ『ときの声』を連載した。その中に、当時の浄閑寺住職であった人物(以下「住職」)による報告が登場する。そしてその報告の中に、改葬のくだりがある。
改葬と共通点がある両墓制
住職は生まれも育ちも浄閑寺であったため、「吉原の裏面はもの心ついてから知って」いた。彼が子どもの頃、亡くなった吉原遊女は「粗末な樽のような棺」に入れられ、夜に浄閑寺に運ばれてきた。遺体と棺を、昼のうちに使用人が掘っておいた穴に埋めて土をかぶせたという。そして遺体が白骨化した頃、掘り出して「無縁仏(筆者注:ここでは、檀家ではないがその寺院に埋葬された死者)の供養塔の下」に埋葬して読経したとのことである。
ここで吉原遊女の遺体・遺骨が、「一旦墓標のない仮の墓に土葬→白骨化した後に石の墓標の建つ墓に改葬」というルートで改葬されていることは興味深い。なぜなら、かつて特に近畿地方で盛んであった「両墓制」でみられる習俗と、共通点があるからである。
現代の改葬とは異なり、当時は合理的な理由で行われていた
「両墓制」では、実際に遺体を埋葬し、それ以降はほぼ放置される墓標のない「埋め墓」と、墓参りの対象である、遺体はないが石の墓標の建つ「詣り墓」を建てた。
「埋め墓」に墓標を建てないのは、大きく分けて2つの理由があった。前近代の日本では、故人の遺体へのこだわりが、現代に比べ希薄だったことと、もう一つ、遺体が白骨化すると地中に空洞ができるので、上に重い墓標を建てると陥没してしまうから、ということである。
この2つ目の理由こそ、吉原遊女の遺体が、改葬を経て石の供養塔の下に埋葬された理由の一つでもある。
また、大人数の遺体のために1つの墓標を建て、それ以降もそこに葬られる遺体が増えていくという点でも、改葬を経ることは合理性があった。白骨化によって容積が小さくなった遺体は、白骨化していない遺体に比べると、移動させやすく場所を取らないからである。
参考文献:大和の終末期古墳、 0葬 あっさり死ぬ、 吉屋信子全集〈12〉私の見た人・ときの声 (1976年)