江戸時代の江戸市内では、溺死者、またそれらしい遺体が発見された場合、法律で「沖へ突き流してしまうこと」と決められていた。
現代では一見残酷・冷酷に思えるこの決まりは、なぜできたのだろうか。様々な理由が考えられるが、大きな理由は次のようなものである。
溺死者を沖に尽き流していた理由とは?
(1)当時の日本では、現代と比べると大幅に、故人の遺体や遺骨へのこだわりが少なかったため。故人の実の肉親も、故人の遺体や遺骨にはこだわらない傾向が強かった。
(2)衛生上や見た目上の理由。身元などが不明な死者で、特に腐敗が起こっている場合には、安易に引き揚げると、悪臭や疫病の原因になる危険があると考えられていたようである。また、特に汽水域に浮かぶ遺体は、潮の満ち引きのために河口周辺を行ったり戻ったりする。これも、特に江戸のような海・川・運河のある都市では、衛生上や見た目上忌避すべきことであった。
(3)溺死者などの遺体を「沖へ突き流してしまう」のは、単なる遺体の遺棄ではなく、いわゆる水葬の一つであった可能性もある。日本には、遺体を川や海、湖などに流す水葬の歴史はなかったと、一般にいわれている。しかしながら、江戸時代の熊野の補陀落山寺の住職の葬儀で行われた「補陀落渡海」など、極めて一部には水葬のしきたりがあったことが知られている。少数の人々の例ではあるが、江戸時代の本州でもこうした水葬が行われたことを考えると、「遺体突き流し」にも、水葬としての側面があった可能性を否定出来ない。
なお、(3)の水葬説は筆者が考えついたことだが、とにかくこのように様々な理由によって、多くの人間の遺体が水に漂っていたのが、江戸時代の江戸のもう一つの側面であった。
江戸以外ではどうだった?
ところで「水に浮く遺体突き流し令」が、当時の日本の実質的な首都であった江戸ですら出されていたのだから、地方ではもっとこうした傾向は強かったのではないか、という疑問を持つ方もいるだろう。
結論から言うと、実際にはそれも一概には言えない。但し、地方によっては、水上の遺体の回収が江戸よりも熱心に行われていた可能性が高い。
特に、現在の長野県にある諏訪湖の周囲では、溺死者などの遺体は、例え沈んでしまっていても、捜索され回収される傾向が強かったようである。江戸時代中期に活躍した国学者 谷川士清の手になり、彼の没後に世に出た辞書『和訓栞』にも、それを裏付ける箇所がある。
興味深いことに、そうした遺体捜索には、ニワトリが使われたということである。これは、ニワトリは人の遺体のある場所を悟って鳴く(時を告げる)、という俗信から来ているものだそうである。
参考文献 酒呑童子の誕生―もうひとつの日本文化