日清戦争・日露戦争のような明治期の対外戦争では、日中戦争や太平洋戦争など、「せっぱつまった」昭和期の戦争の際に比べ、戦没者の遺骨が敬意を持って丁寧に日本に運ばれ、遺族に引き渡されたもの、というイメージがある。
しかしながら、実は必ずしもそうとは言えないことが多々あったのである。
今ほど、遺骨に対してのこだわりは強くなかった
そもそも、戦没者の遺骨を日本国内に運ぶ制度は、当時はまだできたばかりであった。そのためもあり、どのように日本国内に運び遺族に届ける(あるいは軍の墓地に埋葬する)かについては、相当迷走していたふしがある。現に、日露戦争の始まった1904年には、戦没者遺族に遺骨を小包郵便で直接送ることや、その際に例えば、遺骨を納めるのに新聞紙やタバコの空き箱などを使ったりすることが散見された。
なお、日本で故人の遺骨にこだわる傾向が大幅に強まったのは、実は近現代に入ってからである。だから少しぞんざいな扱いになっていたのである。ただその反面、こうした外国の戦場での死が「自分ごと」として立ち現れたことによって、遺骨へのこだわりが強化されていったという考え方もできる。しかし実際には、20世紀に入ってからも、このように遺骨をあり合わせの品物で梱包し、小包郵便で遺族に届ける例があるほど、往時の日本では遺骨へのこだわりというか敬意は薄かったのである。
粗雑となっていた遺骨への扱いは、次第に改善されていった
この「遺骨に対しての扱いが粗雑である点」について、当時の陸軍の要人によって「改善すべき事案」とされた。その結果、まず始めに、一番遺骨の取り扱いが「粗雑である」とされた部隊の補充隊が所在した長野県では、その「粗雑な扱い」を、少なくとも遺族の目の届く範囲ではやめさせるため、1904年の9月に新しい取り組みが始められた。
その取り組みというのは、遺族への遺骨引き渡し式(遺骨交付式・遺骨伝達式などと呼ばれた)と合同葬儀であった。ここでの遺骨がどのようなルートで遺族に引き渡されるかということは、簡単に説明すると次のようなものである。
国外の前線から補充隊所在地に届けられた遺骨は、補充隊がその県の県庁まで付き添って送る。そして関係市町村の職員がこれを受領する。県庁から各市役所・群役所へは遺骨は小包で送られる。その後、各市・群で遺族への遺骨引き渡し式及び合同葬儀が行われる。
なお、その後の戦争ではこうした遺骨引き渡し式と合同葬だけでなく、遺骨届け役を引き受けた兵士によって国内に運ばれることもあった。但し、兵士の間では「遺骨届け役になった兵士は、戦場に戻ると死ぬ」というジンクスが語られ、この役目は忌避されがちだったようである。