江戸時代、中世以前の歴代天皇の墓は、誰がどこの墓に葬られているのか不明な墓が非常に多かった。
また、当時は一般大衆にとって天皇の具体的なイメージは極めて希薄であり、漠然と「偉い人」という理解しかなかったのが、実情であった。
そして、近世以降の天皇の墓には、庶民が参詣することは事実上できなかった。
天皇陵墓の参拝がブームに!
江戸時代の庶民層の人々と天皇の墓との関係は、このようにほとんど接点がないものであった。しかし大正期〜昭和戦前期には、天皇の墓に参詣することが、特に東京や関西諸都市の一般庶民の間で、ある種のブームとなったことがある。その「天皇の墓に墓参り」ブームが起こった大きな時代的背景は、3つある。
(1)幕末期から明治前期の頃に、どこがどの天皇の墓なのかということが、どんどん決められていったこと。どの天皇がどこに葬られているのかは、様々な古記録を参照して決められていった。これは、日本が「近代国家」として西洋諸国と肩を並べられるようにするための、様々な施策の一つであった。
(2)近代に入って、時の明治天皇が「国民の前に姿を見せ、国民に呼び掛ける天皇」として、社会の表舞台に登場したこと。つまり、「具体的なイメージ」を持つ天皇が、大衆の前に登場したわけである。
(3)鉄道網が発達し、様々な場所に行けるチャンスが増えたこと。
明治維新前後、急遽歴代天皇の墓を決めたとか…
そして大正初期には、大正天皇が即位大礼で、彼の父明治天皇の墓である伏見桃山陵や、伝説上の人物である(当時は、実在の歴史的人物とされた)神武天皇の墓とされる畝傍御陵に参詣した。この即位大礼が、天皇の墓への墓参りブームの火付け役になった。
大正天皇に続くかのように、一般の市民も、次々と伏見桃山陵や畝傍御陵に参詣した。更には、その他の近畿圏に点在する古代や中世の天皇の墓も、市民の参詣の対象となっていった。こうした中世以前の天皇の墓の多くは、先述したように明治維新前後に急遽見出され、どの天皇の墓なのかが決められたものであった。
大正天皇の参拝客を報じた当時の新聞では…
そして、大正天皇は亡くなると東京都八王子市の墓に葬られた。彼は、初めて首都圏に葬られた天皇である。大正天皇の墓にも、早速多くの市民が参詣した。
興味深いことに、大正天皇の墓に参詣する人々を報道した新聞記事を読むと、明らかに一種の「お祭り騒ぎ」のような雰囲気を醸し出していたことが読み取れる。
明治から昭和の終戦・日本国憲法の公布までの時代には、天皇に関する様々な物事は、終始威圧的なものであったというイメージがあるだけに、この報告は意外である。
こうした明るいノリは、大正期の、伏見桃山陵やその他遠い過去の天皇の墓に参詣した人々にも、恐らくあったことだろう。これについては、民俗学的な点からの研究も期待したい。