決まりごとがなく、自由にデザインできる生花祭壇は葬儀の規模に関係なく、現在の流行である。その一方で、以前に流行だったのが白木祭壇だ。
生花祭壇と白木祭壇。この二つは今と昔という形で対比的に扱われることが少なくない。その際、白木祭壇にはほぼ決まり文句のように「伝統的な」などの形容の言葉が使われる。しかし、実はそれほど長い歴史を持つというわけではない。なんとその普及は戦後の昭和30年代頃であった。
ちなみにそれ以前の葬儀で一般的だった祭壇は、高さの違う幾つかのテーブルを白い布で覆った「白布祭壇」であった。時には、あり合わせのテーブルを使うことも少なくなかったこともあったという。
明治時代まで続いた葬列とは?
祭壇は葬儀の一つのシンボルとして扱われいるが、一方、近世の特に後半から近現代の初期、人々が葬送儀礼で力を入れたのは、故人の遺体を墓地や火葬場に移動させる際の葬列であった。
既に元禄期の上方では、葬列用具を作る専門あるいは準専門の職人の存在が報告されている。中世には色濃かった、死をタブーとする感覚がやや薄れ、「見せるもの」としての葬列という発想が登場したことが、このことからわかる。
この「見せるもの」としての葬列という発想は、明治以降に大いに強化される。厳かで華やかな葬列は、富裕な庶民層も含めた高位の人々にとってのステイタスであった。そして、江戸期に少しずつ登場していた、葬列用具職人などの葬送儀礼に関する様々な業者がどんどん統合されていき、現代でいう葬儀社となった。
火葬が一般化した戦後に徐々に祭壇が普及
戦後、いわゆるモータリゼーションの時代を迎え、それとほぼ同じ頃に多くの地域で火葬が一般化していった。それにより大勢の人々による徒歩の葬列は、霊柩車の運行に取って代わられた。そしてこの「霊柩車による葬列」は、徒歩の葬列とは異なり、故人や遺族の社会的・経済的階層を見えなくさせるとみなされた。
そのため富裕層の人々は、葬列ではなく葬儀の場面で、故人や遺族の裕福さや地位の高さが強調できることを求めた。その結果、値段が高いほど豪華である白木祭壇が登場したのであった。