儒教道徳が強化された江戸時代の初期、現在は当たり前となっている埋葬方法「火葬」が、その時代はタブーとされていたことに以前触れた。
理由は、儒教道徳に通じる、自分の親や主人の遺体を焼くことは「親や主人の遺体を損壊する」ことであり「忠孝道徳に反する」とする考え方があったからだ。
現代では考えづらいが、当時の一部なインテリの間で大真面目に唱えられ、その発想は幕府や各藩にそれなりに肯定的に受容された。そしてそれは、庶民階級の人々にも共有されていった。
儒教の発祥の地、中国ではどんな埋葬がされていた?
では儒教の発祥の地、中国でもやはり火葬はタブー視されていたのだろうか。
ちなみにニュースなどで時々流れてくる情報によれば、現代中国では、特に都市部では火葬を選択する人々もいるようである。
しかし日本よりも国土が圧倒的に広いこともあり、歴史的に見ると貴人層から貧しい庶民に至るまで土葬が一般的だという。
そして、それは歴史を遡ってみても一致しており、諸王朝の歴代の皇帝の中にも、火葬された皇帝は私の知る限りではいないと思われる。
特殊な例として火葬された、その事情とは?
しかし例外的に、清朝時代の上流層の人物で火葬を選択した人物がいる。1650年に亡くなった呉洪裕である。
彼が火葬を望んだ理由は、結局語られておらず彼自身にしかわからないことである。ただ、彼は元朝時代の名画「富春山居図」の当時の所有者であり、この絵を愛し独占したい余り自分の死後一緒に火葬するよう遺言したという。
その遺言は一旦叶えられたが、後悔した子息の呉静庵が「富春山居図」を火中から拾い出している。そのため焼け焦げによって切断されてしまったものの、現在も残っているわけである。
「大切なものとを一緒に火葬する」という発想に通じる?
この例では、故人が思い入れの強い美術品を所有していて、それを独占したい余り自分の遺体と一緒に焼いてしまうことを望んだわけである。思い入れの強い品を死後も独占したいなら、遺体を土葬したとしても一緒に埋められるはずであると考えたのだろう。
しかし敢えて「焼く」ことを望んだことには、現代の中国・台湾や各国の中国系住民の間で今も行われる、葬儀の際に紙で作られた作り物の紙幣やコイン、その他様々な作り物を焼く風習と、共通の発想があるのではないだろうか。
呉洪裕の場合は、その際に焼くものの中に「彼自身の遺体」も入れていたと言えるだろう。