幕末期の旧幕府軍と官軍(新政府軍)との戦闘の際に新政府軍は、上野に立てこもった彰義隊や会津の白虎隊など、旧幕府軍の戦死者の遺体を埋葬することを厳しく禁じた。
しかし、そうした中でも各地で新政府軍による処刑を恐れず、各地でひそかに遺体の埋葬をした人々がいた。
旧幕府軍を埋葬したのは、各地の仏教徒だった
それは、仏教の僧侶やいわゆる博徒の長たちであった(その中には、有名な清水の次郎長もいる)。
彼らは「死者に官軍も賊軍(新政府軍は、旧幕府軍をこう呼んだ)もない」として、所属を問わず遺体の埋葬を行った。そして、新政府軍も彼らを処刑できなかった。
ちなみに筆者が今回この逸話を持ち出したのは、単なる日本葬儀・埋葬史の中の美談紹介のためではない。こういった、「死者がどこ・何に所属するか」を問わず、埋葬することを支えた思想と文化について書く際の、いわば導入のためである。
檀家以外にも埋葬スペースを用意していた一部の寺院
江戸時代には、いわゆる隠れキリシタンの取り締まりやキリシタン化防止のため、武家・庶民が一家を挙げて特定の仏教寺院の信者となる制度があった。これが現在よく見られる、「家の宗教宗派としての○○宗」という形式や、いわゆる葬式仏教の一般化のルーツである。
ちなみにこの時代、特に江戸時代中期〜後期は、「先祖代々の墓」が誕生した時代でもある。
しかし、そうした中で、一部の寺院では敷地内の墓地に、檀家の墓だけでなくそれ以外の人々が埋葬される区域も作っていた。
いわゆる無縁仏の概念が発生したのは、江戸時代以降であるが、何らかの理由で「先祖代々の墓」に入る資格を持たないとされた人が、「無縁仏」とされ、その中には、行き倒れなどの「身元不明の死者」も含まれていた。
そうした行き倒れの人々の遺体を葬ったのが、檀家以外の人々のための埋葬区域を設けていた寺院であった。行き倒れの死者や、その他様々な理由で亡くなった身元不明の死者、その他身寄りのない死者がこうした区域に埋葬された。
所属問わず、誰もが埋葬されるべきだという信念
江戸時代の江戸では、水死体はきちんと引き上げられ埋葬されないことも多かった。一方陸上での行き倒れその他の死者の場合は、同じ身元不明の死者でも(檀家の人々に比べて粗雑にではあったが)、ある程度きちんと埋葬されていた。
身元不明の遺体の扱いが、発見場所が陸上か水中かで異なることの理由については、様々な説がある。
ただ江戸時代には、こうした故人の所属を問わず埋葬を行う取り組みが、一部の寺院によって行われていたのである。このことは、旧幕府軍の戦死者の遺体を葬った人々の信念の、一つの根拠であったに違いない。