春先に母が弟妹と旅行に行った時の話だ。
叔母が「やっぱりせめて90までは生きたいわよね」と言ったそうだ。
一同驚くことなく笑ったそうだが、それもそうだろう。
その親たる祖母がたいそうな長生きだったからだ。昨年、三回忌を迎えたばかりだが、享年は104歳であった。
100歳を超える人が半世紀で190倍に
上寿(百歳)のお祝いに国から銀杯をもらえるのだが、これがこの半世紀で190倍に増えて予算が大変なことになっているから、有識者会議で税金の無駄として、やめるだか粗悪品に変更するだかにするとかいうことになったらしいが、実際には三桁の壁はなかなかに厚いものだ。
介護施設で働いている知人の話では、90代までは生きても、越える人は珍しいという。この190倍という数字も、聞けば150人から2万人とのことだ。半世紀どころか明治から続く風習をやめてしまうのはなんとも情けない話だと思う。
最後まで意識ははっきりしていた祖母
祖母は晩年の10年ほどは寝たきりで過ごしてしまっていたが、上寿のお祝いの時に親戚一同が集まった時の写真では、ベッドに寝たままながらも懐かしい暖かな笑顔を浮かべていた。
確か90歳くらいの時だ。頭の表面に腫瘍ができて、歳が歳だけに危ぶまれもしたのだが、手術したら10歳くらい若返ったみたいだと言われたものだ。それくらい元気な祖母だった。
そんな祖母も、いやだからだろうか、寝たきりは嫌だと方々のぽっくり地蔵にお参りに行っていたらしい。結局はその願いは叶わなかったのだが、なくなるぎりぎりまで意識ははっきりしていたらしく、会話はできずとも、目線で自分の子供たちに会えて嬉しげにしていたらしい。
105歳まであと半年足らずだった祖母
私は仕事で忙しくしていたため、見舞いに行くことすらできなかったのだが、毎年田舎に行っていた母から「おばあちゃんがね」と土産話を聞くのを楽しみにしていた。
訃報を聞いたときは、しみじみと「お疲れさまでした」と思ったものだ。105の誕生日まで半年は切っていた。老衰で、穏やかな最期だったという。
やはり仕事で通夜にも葬儀にも参列できなかったのだが、合間を見てせめてお線香だけでもと駆けつけた。
数十年ぶりの田舎の町並みはすっかりかわっていて戸惑いもしたのだが、立派な祭壇とあふれかえる花に囲まれた祖母の遺影は、記憶にある面影のまま優しい笑顔で私を迎えてくれた。
明治から平成まで生きた女性にふさわしく戒名は院号 大姉
いろいろと苦労もあっただろう。戦争で悲しい思いもたくさんしてきた。それでもたくさんの子孫に見守られて、最後は幸せな人生だったのではないだろうか。寝たきりではあったが自宅介護で看取られた。伯父夫婦のその献身的な世話は、祖母の人柄があったからだ。
どうせなら誕生日を迎えるまで生きていてほしかったというのが母たちの願いだったが、充分生きたとは言えるのではないだろうか。
戒名は院号、大姉をいただいた。明治から平成まで生きた女性にふさわしい戒名だ。