「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」ーー葉隠の記述の中で特に有名な一節である。これは“武士たるものは主君のために死ぬことも覚悟しなければならない。”という意味である。日本人ならば多くの者がこの言葉を耳にした事があるだろう。江戸時代中期に書かれた”葉隠”という書物。肥前国佐賀藩鍋島藩士・山本常朝が武士の心得を口述し、それを同藩士田代陣基が筆録しまとめた。全十一巻に及ぶ。ただとある目的のために死を厭わないことが美徳だと書いてあるという解釈にされがちであるが、全くの見当違いである。
葉隠・原文と現代語訳
二つ八の場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。
別に子細なし。胸すわつて進也。(中略)二つ八の場にて、図に当たるやうにする事は及ばざる事也。我人、生きる方が好き也。多分すきの方に理が付べし。岩図に迦れて生たらば、腰抜け也。此境危ふき也。図に迦れて死たらば、気違にて恥にならず、是はブドウの丈夫也。毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落ち度なく、家職を仕課すべき也。との記載がある。現代語訳では“どちらにしようかと思う場面では、早く死ぬ方を選ぶしかない。何も考えずに腹を据え進み出てみるものだ。(中略)そのような場で、図に当たるように行動することは難しいことだ。私を含めて人間は、生きる方が好きだ。おそらく好きな方に理由がつくだろう。図に外れて生き延びるは腰抜けである。この境界が危ないのだ。図に外れて死んでも、それは気違だというだけで、恥にはならない。これが武道の根幹である。毎朝毎夕、いつも死ぬつもりで行動し、死に身になっていれば、武道に自由を得る。一生落ち度鳴く家職を全うすることができる。”ということである。
武士道は武士としての生と死のあり方を説いている
武士道とは死を強制しているものではなく、武士としての生き方・死に方を説いた道である。この教えに従うことで、人生の軸を作ることができ、人として武士として全うした人生を歩むことができるとした。むやみに死ぬことが美しいではなく、人として“生きる”事。そして、死に際をわきまえ、その時には潔く散る事。桜の花びらを愛した日本人ならではの死生観である。十人十色の人生と生き方がある中で、葉隠れに書かれた“死生観”はとても美しいものだと思う。死という避けようのない現実に向き合う準備、日頃の自身の生活を正すことのできる教科書である。