不治の病に倒れたとき、志半ばにして命の残りを宣告されたときなど、私たちは運命を呪い、嘆くだろう。「なぜ私が」「なぜ自分だけが」と。自分の全存在を否定されたかに思え、悲嘆に暮れる激しいスピリチュアルペインに襲われると思われる。しかし絶望の人生を歩みながらもその一切を肯定するに至った人達もいる。中村久子(1897〜1968)もその一人である。
1歳で四肢切断した中村久子
中村久子は1歳のとき「特発性脱疽」に罹患した。手足の血管が血栓でふさがれ、血液が流れにくくなり、末梢組織が壊死する難病である。母親の懇願もむなしく、四股を切断するに至った。久子受難の人生の始まりである。母は久子に口で裁縫などを行うなど、生きるための技術を習得させた。やがて久子は20歳で身売りという形で見世物小屋に参加し「だるま娘」という名で裁縫などの腕を披露した。「だるま娘」とは酷い名称であるが、社会福祉が十分でなかった当時においては、久子のように身体に障害のある人の生計手段でもあった。
母や夫、娘を相次いで亡くした中村久子
見世物小屋で芸人として活動している間、久子は1920年から27年の間に母、夫、そして娘など肉親を相次いで亡くしている。結婚出産という、やっと手に入れたささやかな幸せすら奪われてしまったのだ。「なぜ自分だけがこんな苦しみにあわなくてはならないのか」久子の悲嘆に答える者はいなかった。
ヘレン・ケラーから「私より不幸で私より偉大」と称えられた中村久子
久子はクリスチャン・座古愛子(1878〜1945)と出逢う。16歳の時にリウマチを患い、50年間寝たきりの生活を送りながらもキリスト教の伝導に励んだ。世を恨み、人を恨み、恨みつらみで生きてきた久子は愛子の生き方に大きく胸を揺さぶられた。そして1937年久子は日比谷公会堂でヘレン・ケラー(1880〜1968)と対面した。ヘレンは久子を「私より不幸な人、偉大な人」と称えた。
知名度が上がった中村久子は見世物小屋を去り講演をするようになった
このヘレンとの邂逅は世に広く知られることとなる。知名度を高めた久子は見世物小屋を去り、講演などを数多くこなした。久子は世間に認められたのである。それは久子のこれまでの人生を振り返れば当然の報われである。苦界から抜け栄光の道を歩んだ人は多い。彼らは苦しみを抜けた自負に満ちている。久子もまた自分がいかに地獄を見たか。そして懸命の努力で克服し、自立しえたかを説いた。だが久子の心は新たな苦しみを生み出すことになる。
世間からの高い評価を得た中村久子は徐々に慢心し始めた
逆境に打ち勝った意思の人・中村久子。だが久子はそのような自信、自負は慢心でしかなかったことを自覚するようになり、深く悩むことになる。久子とて人間である。世間にちやほやされている内に、自分は特別な存在だと思い込んでも無理はない。現代でも久子と同じ境遇でありながら社会的に成功し、その立場に飲み込まれたように、非倫理的な行為に及んでしまい批判を集めた人物がいる。傲慢とは恐るべき「魔」なのである。久子はその「魔」に気づき、汚れた自分を恥じたのだった。仏教ではおごり高ぶった心を「慢」と呼び、「増上慢」などの7つに分け「七慢」として戒めている。
歎異抄と出会い、念仏の教えに感銘を受けた中村久子
そうした中、久子は浄土真宗の信者である書家に「歎異抄」を薦められ、その他力と念仏の教えに感銘を受ける。歎異抄は浄土真宗開祖・親鸞(1173〜1262)の言葉を、弟子の一人唯円(?〜1289)が書き残したものである。
真宗では弱く罪深い存在である人間が自力でできることなどたかが知れており、すべてを阿弥陀仏に任せる「他力」の教えを説く。私たちは自分の意思で生まれたわけではない。この時点で自力も何もないのである。かといって運命に翻弄され絶望し諦めるのではない。阿弥陀仏の慈愛の下、私たちは命を頂き、生かされている。命のすべてに意味があるのだと感得する。そのための行が念仏である。念仏は難解な仏教の知識や、厳しい苦行など到底できない民衆が救われるためのもので、阿弥陀仏が言葉となったものが「南無阿弥陀仏」の六字とされている。民衆はひたすら「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え阿弥陀仏に身も心もゆだねた。そこでは、自分は偉いんだという傲慢や、ああしてやろうこうしてやろうという賢しらな心もすべて浄化され、ありのままの生のままの自分を阿弥陀仏にさらけ出す。仏教では自分という存在は存在しない無我を説いている。念仏を唱えることで苦しみに自ら執着していた我=エゴから解放され、阿弥陀仏の慈愛を知り、苦しみや悲しみにも感謝する心が生まれる。これが親鸞の念仏の教えである。
慢心や奢りを捨てた中村久子は見世物小屋に戻った
慢心を捨てありのままの自分に感謝せよ。歎異抄を通じて念仏の教えを知った久子に驕りは消えた。手足の無いこの体こそが、自分をここまで連れてきてくれたのではないか。そしてこの体ゆえに自分を苦しめてきた人達もまた自分を磨いてくれたのだ。
「業ある間、何十年でも見世物芸人でいいではないか。止めろとほとけ様がおっしゃる時が来たらやめさせてもらえばよい」と久子は言い、見世物小屋に戻り芸人活動を再開した。講演も引き続き行ったが、かつての堂々とした成功者としての講演ではなく、聴取者たちと同じ目線に立っての内容に変わったという。
過酷な運命に抗して生きていく姿は尊い。しかし運命と戦う格好の良い自分に対する傲慢はないか。歎異抄にはこうある。
「そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり」(歎異抄 第三条)
親鸞の言う「善人」とは、なまじ自力で生きているだけに自分の力に溺れている人である。久子は生きるために尋常ならざる意志と努力を重ねてきた。いわば自分自身のみに依って立つ「自力」の人だった。そんな自分を誇るのは当然である。しかしそれは容易に傲慢につながる。自分はこれだけ苦労した、だから偉いんだと。そのようなエゴこそが苦しみの原因なのだ。自力ではどうにもできない苦しみは存在する。それは「自分に執着する自分」故である。久子を苦しめていたのは、自分自身=エゴであった。その久子が人生の彷徨の果てに辿り着いたのがエゴを捨て生かされていることに感謝する「他力」の世界であった。歎異抄と念仏の教えは久子の苦しみを浄化したのである。
遺体は献体するようにと遺言をのこした中村久子
余命を宣告され、悲嘆に陥ることをスピリチュアル・ペインという。「なぜ私だけが!」「なぜ自分だけがこんな苦しみにあわなくてはならないのか!」死はあまりにも不条理である。だが死は万人に訪れる。死は平等すぎるほど平等である。自力ではどうにもならない、まさに他力の領域である。なぜ自分だけがと悲嘆に陥るのは、自分=エゴに執着しているからだ。
親鸞は自分の遺体の扱いについて「賀茂河にいれて魚に魚に与えよ」と言い残している。親鸞を崇敬する久子もこれに倣ってか、自分の死後は遺体を献体するように遺言を残した。身も心も、すべての執着から解放された者にとって自らの遺体の行方は問題ではなかった。そこは阿弥陀仏にゆだねた者が到達した絶対安心の世界である。
何でも「ある」世界
安心の世界とはすべてが満たされている世界である。自分とは何かを欲している存在であり、生きるとは無い物ねだりの連続である。悲嘆は究極の無い物ねだりといえるだろう。
身も心もすべてにおいて、何も無かった久子が辿り着いた世界は何の変哲もないこの現実世界。しかし実は何でも「ある」世界であった。
ある ある ある 中村久子
さわやかな秋の朝
「タオル取ってちょうだい」
「おーい」と答える良人がある
「ハーイ」という娘がおる
歯をみがく 義歯の取り外し かおを洗う
短いけれど指のない
まるいつよい手が 何でもしてくれる
断端に骨のない やわらかい腕もある
何でもしてくれる 短い手もある
ある ある ある
みんなある
さわやかな秋の朝
参考資料
■唯円 著/千葉乗隆 訳注「新版 歎異抄」角川ソフィア文庫(2013)
■中村久子「こころの手足ー中村久子自伝」春秋社(1999)
■鍋島直樹「中村久子の生死観と超越 下」龍谷大学論集(2017)
■高田正城「念仏者・中村久子 人間となる歩みによせて」真宗文化研究所「真宗文化第16号」(2007)