前編では、筆者がタイのチェンマイに訪れた時に感じた現地の人々の「当たり前に浸透していた見返りを期待しない善行」に触れました。
後編では「マイペンライ」という、タイで根付いているそんな善行を象徴する言葉について感じたことをまとめました。
ギブアンドテイクの精神
筆者は基本的に、見返りを期待しない善意は存在しないと考えるようにしています。そうではない人もいますが、それをアテにするのもリスキーだからです。安易に善意を受け取ってしまった為に、返礼の義務や上下関係等暗黙のルールが生まれてしまい、後々トラブルに発展する例も少なくありませんし、このご時世では詐欺のリスクも考慮しなくてはなりません。
更に言えば仏教で美徳とされている「施し」も、見る限り与え手・受け手両方に歪んだ心理が生まれやすい気がします。善意や施しは大変素晴らしいものですが、残念ながらリスクも付き纏うのです。
マイペンライの教え
しかし、チェンマイで過ごしているとそんな考え方に虚しさを感じました。チェンマイの人々はとても素直に、囚われず生きているように見えたからです。
チップを貰えればラッキーと喜ぶ。でも貰えなくても気にしない。親切を受けてもラッキーと喜ぶ。でも返礼を義務とは思わない。お礼したければする、したくなければしない。けれど、自分も同じように気が向けば他の誰かに親切にする。見返りがなくても気にしない。
とかく、全てが素直で自然でした。自分も適当、相手も適当。だから気にしない、気にするな。「マイペンライ」。
徳を積むことが大事にされているタイ
「見返りを期待しない」と表現しましたが、厳密に言うと彼らには仏教精神に基づく「徳を積む」という見返りがあるのだと思います。仏教の精神が深く根付いているからこそ、ごく自然に施しを与え、また、受け入れられるのだと思います。
勿論、適当さが悪い方へ働くケースもあります。タイ国内でも環境により気質は変わりますし、日本人と同じでタイ人も人それぞれ。安易に決め付けられるものではありません。
ですが筆者は、チェンマイで過ごした日々で本来の仏教精神を学ばせて頂いた気がします。何ものにも囚われず、あるがまま、穏やかに。「日本は物質的な豊かさの代わりに精神的な豊かさを失った」-。巷で囁かれるそんな嘆きを、タイで目の当たりにさせられたような気がするのです。