文芸評論家の中村光夫(1911〜1988)は1972(昭和47)年に行なった講演の中で、「明治以来、文学者でみずから命を絶った人は、なかなか大勢いるわけであります」と前置きし、作家たちの自殺について語った。
自ら命を絶った文学者の共通点
そこで中村は北村透谷(とうこく。1868〜1894)、川上眉山(びざん。1869〜1908)、芥川龍之介(1892〜1927)、太宰治(1909〜1948)、三島由紀夫(1925〜1970)までの作家たちが自殺を選んだ共通点として、「大きな時勢の変り目を予感して亡くなったようなところがある」と述べている。中村が言うには、北村透谷の場合は、日清戦争(1894〜1895)が間もなく起こった。川上眉山は日露戦争(1904〜1905)の後で、明治の終わり、大正時代の始まりというような、国民の感情の流れの大きな変化があった。芥川龍之介は、大正時代(1912〜1926)の終わり、昭和(1926〜1989)という新しい時代の始まりを予感して、恐怖心を持った。芥川の「恐れ」は主に、プロレタリア階級の勃興や労働運動などの社会革命があった。太宰治は、朝鮮戦争(1950〜1953)が起こる前で、いわゆる戦後の直接の窮乏が終わりかけてきた。そしてそこに戦後の、何か苛立った、やけな無力感、どうせ何を思ったって、何もできやしないさ、というような気分の終わりがあった。三島由紀夫の場合も太宰同様、戦後の「時勢の変化」を象徴するものだったのではないか、と推察した。厳密には小説家とは異なるが、保守派の論客で経済学者の西部邁(1939〜2018)が「自裁死」を決意し、世間の「正月気分」が終わった1月21日に多摩川で入水自殺したのも、1989年に始まった平成という時代が来年の4月30日で終わる、「時勢の変わり目」の目前であることも、自殺の「動機」の大きな理由のひとつと言えるかもしれない。
文芸作家とは
作家とは「性格」「人格」「モラル」「私生活」…が世間一般でよしとされる規範から大きく逸脱している場合が多々あるものの、おしなべて繊細な感受性を有し、知性が高く、探究心も豊富で、それに加えてあれこれと物事を思い巡らす想像力、そしてものを生み出す創造力に富んでいる。
何もかも「常識」で推し量ることが極めて困難な、唯一無二の存在である彼らが生み出す作品は、人の心を鋭くとらえ、強くえぐる。人はいつか死ぬとはいえ、作家の珠玉の才能が自殺によって、早急に、そして永久に失われてしまうことは、読者の立場としては、悲しい、口惜しいという言葉では言い尽くせないものがある。
芥川龍之介の場合は?
例えば芥川龍之介は1927(昭和2)年の7月24日の早朝、自宅で睡眠薬ベロナールとジアールを服毒し、命を絶った。35歳だった。1921(大正10)年の中国旅行の折に買い求め、愛用していた「支那麻の浴衣」を身につけ、寝床の傍らには、就寝前に開いたと覚しい、キリスト教の聖書が置かれていたという。
芥川の遺稿のひとつで、知己があった作家の久米正雄(1891〜1952)らに宛てたとされる『或旧友へ送る手記』(1927)によると、「2年ばかりの間は死ぬことばかりを考え続けていた」という芥川自身が「その時」、死を決めた理由として、「唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」と記していた。そしてその死に際し、どうすれば苦しまずに死ぬことができるのかを考え、「縊死することよりも美的嫌悪を与へない外に蘇生する危険のない利益を持つてゐる」ために、薬品を使った自殺を決めた。しかも自殺の決意そのものに対しては、「誰でも皆自殺するのは彼自身に『やむを得ない場合』だけに行ふ。その前に敢然と自殺するものは寧ろ勇気に富んでゐなければならぬ」と、実に客観的、または他人事のように論じている。そのためか芥川自身は、自殺であっても、個人的な動機によるものではなく、「大義のために自らの命を捧げる」こと、すなわち「殉教」や「殉死」を遂げたキリスト教の殉教者・聖セバスチャンや二・二六事件で「決起」した青年将校たちに強いシンパシーを抱いていた三島由紀夫のように、自殺という行為を「美化」していたわけではなかった。それは芥川が、日露戦争の際、旅順で指揮を執り、明治天皇崩御の後に殉死した乃木希典(1849〜1912)のことを賛美していたわけではなかったこと。そして彼の3人の息子たちに残した遺書には、「若しこの人生の戦ひに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ。但し汝等の父の如く他に不幸を及ぼすを避けよ」と書いていたことから、窺い知れる。
芥川龍之介が遺した自殺の動機とは
芥川は「唯ぼんやりした不安」と書き残した自殺の動機だが、実際のところ、芥川自身でなければわからないことである。場合によっては、芥川自身が述べていたことが本意とは限らない。万一芥川が助かって、後から振り返った時に、「当時、どうしてあんなことを考えていたのかわからない」こともある。
ジャーナリストの菊地正憲は芥川の死の動機について、「長く患っていた神経衰弱、発狂への不安、噂された人妻との不倫などが取りざたされ、なお謎めく」と推察している。筆者は、菊地が挙げる、芥川個人が抱えたであろう、生きている間の苦しみや悩みの「解決策」または「逃げ道」として、自分の手でこの世からいなくなることに決めた、その「引き金」は中村が指摘した、「大きな時勢の変り目」への「予感」、或いは「不安」があったのではないかと考える。
時代の潮流や節目が与える影響
しかし日本の近代小説の歴史においては、中村が分析するところによると、いろいろな思想が活発に交換されたり、いろいろな探求が行われる時期においては、必ずしもいい作品が生まれているとは限らない。むしろ外面的に沈滞している嫌な時代の方が、作家が実質上の「いい仕事」をする。そもそも作家とは、外部の、時代の動きなどによって活気づけられたり、しぼんだりする人間でもあるからだという。芥川が死を考えていた2年前というのは、まさに大正というひとつの時代が終わった時だった。また夏目漱石(1867〜1916)に見出された芥川は、趣味を高次な道徳と見た夏目の弟子であり、道徳の喪失を容認することを現代人の持ち得る唯一の誠実とした島村抱月(1971〜1918)の後継者でもあった。それゆえ、「道徳は便宜の異名である」と信じ、「良心とは厳粛なる趣味である」と考えた芥川は、自己の趣味にしたがって生きる根拠が芸術以外に求められなかった。或いは芸術の自律性を信じることがなければ、生きる理由を持ち得なかった。ここで言う「芸術」とは、自ら意識して精緻に計算された美的なものである。この態度は中村が言うには、芥川に限らず、大正期の作家全体が無意識的に同じものを有していた。一方で、大正という時代が経るにつれて広がり始めたマルクス主義、社会主義革命思想に彩られたプロレタリア文学は、芥川が理想とした理智的な「芸術」とは全く異なるものだった。プロレタリア文学やその思想そのものが、現実世界の多数派になることはなく、むしろ政治的に無力であるために、逆に理想主義のムーブメントとして、当時の文学界や知識階級の間で、一種の「精神的権威」的な力を有するようになっていった。それは決して、当時の日本がかつてのソビエト連邦のような社会主義国化することを意味するものではなかったにしても、先鋭すぎるほど先鋭だった芥川からすると、彼を含む松岡譲(1891〜1969)や菊池寛(1888〜1948)、山本有三(1887〜1974)ら新思潮派の作家たちが理想とする「芸術の世界」が崩壊する予兆に思えたのだろう。
芥川龍之介について語った三島由紀夫
芥川の自殺について、1954(昭和29)年に「私は弱いものがきらひである」と冒頭に断り、「私の心は、小羊のごとく、小鳩のごとく、いうにやさしく、傷つきやすく、涙もろく、抒情的で、感傷的なのかもしれない。それで心の弱い人を見ると、自分もさうなるかもしれないといふ恐怖を感じ、自戒の心が嫌悪に變るのかもしれない」と「本心」を述べた三島由紀夫は、「自殺する作家は、洋の東西を問わず、ふしぎと藝術家意識を濃厚に持つた作家に多いやうである」と分析しつつも、「芥川は自殺が好きだつたから、自殺したのだ。私がさういふ生き方をきらひであつても、何も人の生き方に咎め立てする権利はない」と素っ気なく突き放している。しかしそれから16年後、彼もまた、「同じこと」をしたのだ。
ガンを克服し復帰まで果たした元プロレスラー小橋建太
39歳の若さで2006(平成18)年に腎臓ガンが発見され、1年の闘病生活を経て復活を果たし、2013(平成25)年に引退したプロレスラー、小橋建太は「心が折れそうになった時、どうやって踏みとどまるのか?どうすれば、あきらめないで闘い続けることができるのか?苦しい時、どうやってメンタルを鍛えていくのか?」を、小橋自身の失敗や挫折体験を通して、全ての人々に何らかのヒントを届けたいと1冊の本を著した。
「ケガ、病気、別れ…いろいろと精神的にしんどいなと感じる人は多いと思いますが、それは人間として当然のことです…(略)…僕のなかの精神的なイメージでは…(略)…心のなかで『ポジティブ』と『ネガティブ』がシーソーの上に乗っている。ポジティブが上がれば、ネガティブは下がる。ネガティブが上がれば、ポジティブが下がる。そのバランスは本当にちょっとしたことで変化しますから、いちいち気にしていたら大変です。ケガで長期入院したり、リハビリを続けたりしているのに、なかなか回復してくれないという時にはそれを嫌というほど思い知らされました。だから『ちょっと客観視してみませんか?』とみなさんに言いたいんです。本当にネガティブなことしか今日はありませんでしたか?ふと自分を客観視することで…(略)…『人生、悪いことばかりじゃない』ということに気づいていただけるんじゃないかと思っています」。ただ、「いいこと」が自分に返ってくるためには、ただじっと待っているのではなく、日々「必ずいいことがあると信じて頑張る」ことが大事だという。さらに小橋は、「人間、ひとりでは生きていけません…若い頃はちょっと強がったり突っ張ったりして、一匹狼を気取る時期があるかもしれませんが、年を重ねて人生経験が増えていくと『やっぱり、ひとりじゃ生きていけないし自分はひとりじゃない』と気がつくものです。ひとりで悩みを抱えているから、余計につらくなる。ひとりでなんとかしようと考えるから、意固地になる。そこに気づいて素直に受け入れられるようになったら、もっと簡単につらさを『いいこと』に変換することができるようになると思います」と、人の存在の大切さを強調した。
自殺をする人もしない人も、すべての人が平等に抱えるものとは
小橋のように強靭な肉体と精神を持つプロレスラーにせよ、芥川をはじめとする自殺した作家たちにせよ、一般のサラリーマン、主婦、学生たちにせよ、状況は異なったとしても、人は誰でも、自分にとって耐え難いこと、苦痛に満ちた理不尽なことに見舞われてしまうし、愛別離苦、生老病死はつきものだ。そこで「死」に逃げ道を求めるのではなく、「それが人生だ」と、苦しみや辛さを「割り切る」。苦しんでいる自分を客観的に眺める自分を持ちたいものである。しかし、それができないからこそ、自殺する人は自殺してしまうのだ。
とはいえ、人はいつか必ず死ぬ。しかしその「いつか」まで、生き続けることが苦しい。老残を晒しながら、或いは自分自身をコントロールできないまま生きるのは自分の「美意識」とは外れる。それゆえ、医療によって「生かされる」のではなく、自分で死ぬべきだと考えて、それを実行する人々を、筆者は否定することも、逆に肯定することもできない。ただただ人間という存在が持つ弱さや悲しさに唇を噛みしめることしかできない。
参考文献
■三島由紀夫「芥川龍之介について」『文藝 臨時増刊 芥川龍之介讀本』1954年11月号 河出書房(55−56頁)
■芥川龍之介『現代日本文學大系 43:芥川龍之介集』1968年 筑摩書房
■森本修「死とその前後」芥川龍之介『現代日本文學大系 43:芥川龍之介集』1968年(404−411頁) 筑摩書房
■中村光夫『日本の近代小説』1954年 岩波書店
■中村光夫『同時代ライブラリー 258:明治・大正・昭和』1972/1996年 岩波書店
■菊地正憲「芥川龍之介の服毒自殺」『新潮45 明治・大正・昭和 文壇13の『怪』事件簿』2006年2月号(50−53頁) 新潮社
■小橋建太『今日より強い自分になる』2014年 株式会社ワニブックス