日本全国には大きさも形も異なる様々な古墳が点在している。そうした中でも「観光地化」で取り上げられておらず、知名度も全国区とは言えないものの、福岡県福岡市西区今宿青木にある前方後円墳・鋤崎(すきざき)古墳には、特筆すべきが事柄がある。それは、日本中の古墳の中で最初期に採用されたとされる「横穴式石室」を備えていたことだ。
「横穴式石室」とは?
今日では前方後円墳の鋤崎古墳、そしてその近辺にある11墓の方墳からなる鋤崎古墳群は、すぐそばに西部ガス株式会社のガスタンク基地があることから、木や草が生い茂り、立て札が存在しない限り、単なる丘陵地にしか見えない。しかしその考古学・歴史的価値は今、改めて見直されるべきものだと言えるだろう。
ちなみに石室とは、文字通り「石でつくった室」だが、考古学・歴史学では主に埋葬施設のことを言う。日本の古墳時代の埋葬施設であれば、竪穴(たてあな)式と横穴式の2つに大別される。竪穴式の場合は、墓壙(ぼこう、墓坑。地面を掘って穴をつくり、そこに遺体を埋めること)の中に平面長方形の壁体(へきたい、表面を含めた壁全体のこと)を築き、納棺後に上部を天井石(てんじょういし)でふさいでしまうものだ。一方の横穴式は、玄室(げんしつ、遺体を収める空間)と羨道(せんどう、玄室に至る通路)で構成されるものだ。こうした構造上の違いのみならず、この2つの石室における葬法は大きく異なる。竪穴式の場合、1室に1体の遺体が基本で、大きさは棺そのものの大きさによって異なる。また、1度埋葬してしまったら、それを再び開けることはない。しかし横穴式は、玄室内に複数の遺体を合葬するのが基本だ。しかも玄室の入り口は板石や塊石で塞いではいるが、開くことが可能なつくりになっている。しかもただ遺体を収めているばかりではなく、玄室内の壁面に彩色したり、絵が描かれているものもある。
鋤崎古墳 横穴式石室の成り立ちは?
北部九州における横穴式石室は、4世紀末〜5世紀初頭に、現在の鋤崎古墳やその周辺の糸島半島、そして佐賀県・唐津湾沿岸地域を中心とした玄界灘沿岸地域西部に位置したとされる、かつての奴国(なこく)・伊都国(いとこく)を領域とした有力首長墓にいち早く採用された。それは漢代(紀元前206年〜紀元220年)の中国で始まったとされる塼室墓(せんしつぼ。穴の中に石や煉瓦で築かれた室内を備えた墓)の影響を受け、朝鮮半島で紀元前1世紀頃に高句麗、百済、伽耶でつくられていたものが日本にも導入されたとされる。さらに横穴式石室は5世紀末には畿内、6世紀を過ぎた頃には全国的に広がっていったという。
鋤崎古墳を含む初期型の横穴式石室は、幅広の長方形、または略方形(りゃくほうけい。角がある長方形、正方形とは異なり、角がなく、縦横の長さが等しくないものの、長方形、正方形と形が似たもの)の玄室を有し、玄門(げんもん、玄室の入り口)と比べて羨道前に広がる「前庭(ぜんてい)」部が広い。そして玄室に向かう羨道が細く、道の位置も中央に設けられ、左右の「袖(そで)が広い」形となっている。こうした形状は、遺体が納められた玄室を前にして、何らかの祭祀儀礼が行われていたこと。そして玄室そのものの雰囲気を「権威がある」「神的」なものにする効果が企図されていたことを類推させるものだ。
鋤崎古墳の規模は?
鋤崎古墳の規模は、全体の長さ62m、後円部は楕円形で短径36m、長径38m、前方後から後円に至るクビレ部の幅15m、前方部の長さ27m、幅は22m。そして周囲には、4段に巡る円筒埴輪が並べられていたことも明らかになっている。
そして横穴式石室だが、後円部最上段中央に築造されていた。前庭部を除いた石室全長は4m、玄室は幅2.45〜2.7mm奥行き3.4mの長方形となっていた。羨道部は幅・長さ共に0.6m、高さ1.35mととても短いものだった。また玄室と羨道の壁面、天井石内面には、全体に渡って赤色顔料が塗られており、玄室の奥壁と側壁には、「突起石」と呼ばれる、壁面から突き出た、玄武岩からなる板石が無数に積み重ねられていた。そして玄室内部には、3つの棺が安置されていた。奥壁に配置されている1号棺は石棺、右側の壁沿いの2号棺は埴棺(はにかん、埴輪のような素焼きの棺)、左側壁寄りの3号棺には木棺があった。1号棺は石室構築と同時に配置されたと見られている。1号棺に埋葬されていたのは、身長140cm、そして副葬品の硬玉・碧玉の玉飾りや銅釧(かなくしろ、腕輪のこと)の存在から、女性か。そして2号棺には人骨と副葬品が残っていなかった。そのため、乳幼児か。3号棺には長方板革綴の短甲(たんこう、鎧のこと)が副葬されていたことから、男性の可能性が類推されている。いずれにせよ1号棺に埋葬された人物の身内であることは明らかである。その他に鏡・刀などの武器・工具・農具も石室内から発見されている。更に石室入口周囲で、3回の閉鎖行為がなされていたことが確認され、1度に先に述べた3つの棺を納めたのではなく、追葬が行われていたことを証している。
鋤崎古墳が国内に広がっていった理由は?
こうした古墳の形状や内部構造などの国内伝播に大きく影響を与えたのは、朝鮮半島からの渡来人からもたらされたものであることはいうまでもない。しかも彼らは、実際に工事に当たった専門の工人ばかりではなく、古墳の形や大きさ、場所の選定、何を副葬するか、内装はどうするかなど、発注者である地域の有力首長またはその配下・身内の者と工人の間をつなぐ、現在で言えば「コーディネーター」「アドバイザー」的な役割を果たした人物が複数いたことも推察される。彼らは恐らく、当時の日本の各地域の「方言」はもちろんのこと、渡来人が話す当時の朝鮮語や中国語などの言葉に通暁し、彼らの間に立って、的確な指示をしていたはずである。そしてそのような「コーディネーター」たちが「いい仕事をした」ということが他の地域にも伝わり、工人と併せて、別の古墳を発注され、招聘される形で陣頭指揮を取っていたのだろう。更に時が経って、彼らの「やり方」を模倣したり、日本の風土により適したものに改変、発展させた日本人も多くいたはずだ。
「古墳」にまつわる記録や資料は殆ど残されていない
鋤崎古墳に限らず、日本中の「古墳」を知ることはとても難しい。確かに最新の計測機器を用いることによって、今まで知られていなかった新たな事実が明らかになることはある。今まで埋もれ、人々が気づかずに通り過ぎていたところから、宅地造成などのきっかけで、新たに発見される遺構や遺物もある。とはいえ結局のところ、我々は過去に遺されたものによってしか、「古墳」を知る手だてがない。謎のまま、永遠に「わかる」ことはないのだ。しかも、実際に巨大古墳事業に携わった人物の手による「日記」や「記録」などは、仮に当時なされていたとしても、今現在発見されていない状況だ。それゆえ、今回取り上げた鋤崎古墳の横穴式石室など、我々が「こうであるに違いない」と考えていることであっても、当時の人々からしたら、我々とは全く違う価値観や意味合いでつくられていたり、葬送儀礼が執り行われていたのかもしれない。
最後に…
これから16世紀後の未来のことは到底想像もつかないが、我々が「当たり前」だと考えて行なっていることを、たとえ我々が古墳時代の人々よりもはるかに多くの文書やインターネット上の記録・情報を残しているとしても、それを未来の人々が文字通りに読み取ってくれるとは限らない。彼らなりの価値観や学問、経験などによって、全く異なる形でそれらを解釈し、それに即した「証拠」を提示し、最終的にそれらによって結論づけられたものが「権威ある学説」になってしまうのかもしれない。現在の我々にとっては価値がない、深い意味がないものに対して、逆に彼らが夢やロマンを見出してしまうかもしれない。いずれにせよ、日本全国の多くの古墳が壊されたり傷つけられたりすることなく、今後も調査・保存・管理され、次世代へと継承され続けることを切に祈らずにはいられない。
参考文献
■柳沢一男「鋤崎古墳」文化庁文化財保護部監修『月刊文化財』1984年11月号(32−38頁)第一法規出版株式会社
■小林義彦「鋤崎古墳」大塚初重・小林三郎・熊野正也(編)『日本古墳大辞典』1989年(305−306頁)東京堂出版
■和田晴吾「石室」下中弘(編)『日本史大事典 4 す〜て』1993年(182−183頁)
■福岡市教育委員会(編)『福岡市埋蔵文化財調査報告書 第506集:鋤崎古墳群 2 鋤崎古墳群 A群第1次、第2次、第3次調査 鋤崎製鉄 A遺跡第1次調査』1997年 福岡市教育委員会
■加部二生「横穴式石室の前庭について –その起源と系譜」『国立歴史民俗博物館研究報告』1999年3月(1–45頁)国立歴史民俗博物館
■福岡市教育委員会(編)『福岡市埋蔵文化財調査報告書 第730集:鋤崎古墳 1981〜1983年調査報告』2002年 福岡市教育委員会
■太田宏明『横穴式石室と古墳時代社会 –遺構分析の方法と実践』2016年 雄山閣