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「死」をオブラートに包む様々な類似表現と、それを使いすぎることの是非

先日カラオケに行き、若い頃の懐かしい歌謡曲を久しぶりに歌っていたところ、2曲続けて「死ぬ」という歌詞が出てきて驚きました。

「二度と会えない恋になるなら そうよ私死ぬだけ」(片平なぎさ 純愛)
「死ぬということ知りたくて」(にしきのあきら もう恋なのか)

調べてみると他にも沢山ありました。

「あなた死んでもいいですか」(都はるみ 北の宿から)
「愛のため死んでもいい僕は今」(沢田研二 死んでもいい)
「あなた夢のように死んでしまったの」(沢田知可子 会いたい)


「死」をオブラートに包んだ様々な類似表現

考えてみると、たとえ話や覚悟を表す慣用句も含めて、昔は歌だけでなく日常会話の中でも「死ぬ」という言葉がもっと頻繁に使われていたように思います。

「死に物狂い」「死ぬの生きるの」「死んで花実が咲くものか」

今でも使われないわけではありませんが、少し使うのを躊躇するところがあります。

「亡くなる」「逝く」「旅立つ」などの婉曲表現は、直接かかわる人や、それを読む人、聞く人の気持ちに配慮したやさしさのあらわれで、必要なことだと思います。英語にも dieに代わる pass away という表現があります。


オブラートに包みすぎることで、本質が見えずらくなる可能性も…

しかし今の時代、言葉を変えることで本質が隠されていることも多いような気がします。

死んだら二度と戻れない。本人と周囲の人の気持ちはいかばかりか。それでも誰にでもいつか死は訪れる。悲しみや恐怖や諦めを込めて、昔は「死ぬ」という言葉を使っていたと思います。

今、言葉を飾ることが、命を軽んじたり、死を美化したりすることにつながってはいないでしょうか。


「障害者」を「障がい者」と表現することも同様に…

同じことは、障害や民族に関する差別用語にも言えると思います。昔は普通に使っていた言葉が、どんどん姿を消しています。害ではないからと、障がいとひらがなで書くことも多くなりました。けれども、差別の問題は言葉そのものではなく、それを使う人の心の中にあると思います。

障害のある人を直接その言葉を使って揶揄するのは許されないことですが、信頼関係があるからこそ率直に言えるということもあります。また以前は、心から障害者を心配し、支援する人もその言葉を使っていましたし、それは聞いていて不快なものではありませんでした。今は差別用語とされる言葉を使いながら、その人たちを地域の一員、仲間として受け入れていたのだと思います。

表舞台から姿を消した言葉たちは、見えない所ではびこっているのかもしれません。見えないからこそ、規律もなく、配慮もなく、野放図に使われて、誰かを傷つけているのかもしれません。


最後に…

今日都市で暮らしていると、肉も魚も切られてパックに入って売られ、ゴミは収集車が持って行けばきれいに無くなり、排泄物はボタン一押しで-時には何もしなくても-流れて行ってしまいます。
確かに、便利で清潔な生活は快適です。そう簡単に昔に戻ることはできません。昔がいいことばかりだったわけでもありません。それでも今、見えるところがきれいになったことで、何か大切なことを忘れてはいないか、と、歌の文句をきっかけに考えてみました。


ライター高田
オブラート

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