東京都品川区の西部に位置する荏原(えばら)には、「平塚(ひらつか)の碑」と呼ばれる、高さ1mほどの石碑がある。1952(昭和27)年に建てられたもので、1958(昭和33)年からは、毎年5月に慰霊祭が催されている。
平塚の碑の言い伝え
この碑は、言い伝えによると、平安時代後期の武将・新羅三郎(しんらさぶろう)こと源義光(みなもとのよしみつ、1045〜1127)が、奥州(おうしゅう、現・東北地方中部)で起こった合戦・後三年(ごさんねん)の役(1083〜87年)終結後、京都に戻る途中で、今現在石碑があるあたりに野営した。その際、盗賊に襲撃され、義光は多くの将兵を失った。その後、義光あるいは付近の村民が亡くなった人々を葬り、広さ10坪(約33㎡)ほどの小塚を築いた。そのことから塚周辺の地域を江戸時代前後から「平塚」と呼ぶようになったという。大正末期、または太平洋戦争後にこの塚を整地のために取り壊したところ、人骨、鎧兜、刀剣などが多く出土した。しかも取り壊した後、付近に住む人々がときどき不吉なことに出会った。それは義光のたたりではないか、などといった噂が広まった。塚が壊されたことで迷う霊を鎮めるため、地元有志の手によって、石碑が建てられた。
また、別の言い伝えによると、昔、荏原近在の中延(なかのぶ)に「ひらつか組」という野盗団がいた。しかし中延の旧家・直井(なおい)家の先祖であるとされる直江山城守(なおえやましろのかみ、直江兼続(なおえかねつぐ、1560〜1620)のこと)がこの地を訪れたとき、「ひらつか組」を退治して、武器武具とともに一緒に埋めた。そのことからこの周辺を「平塚」と呼ぶようになったという。
言い伝えの内容自体の真偽は不明ではあるが、言い伝えられてきたことは事実
これらの言い伝えが真実かどうかは不明である。平安末期から鎌倉時代にかけての荏原地区を含む品川区一帯は、豪族の大井氏とその一族の所領だった。そして戦国時代には、南関東全域は北条早雲(ほうじょうそううん、1432/1456〜1519)を祖とする後北条(ごほうじょう)氏の支配域だった。「源義光」や「直江兼続」などのビッグネームなどとの関わりがあったか否かはともかく、荏原地区には中原道(現・中原街道)など、鎌倉へ通じる古い道が存在し、その脇には草原や田畠が広がる場所だった。
しかし、なぜ取り壊した塚から、人骨や武器武具が出土したことと、先に挙げた名将たちが結びつけられ、地域に語り伝えられてきたのだろうか。
言い伝えが語り継がれていくには理由がある
そもそも「武士」とは諸説あるが、主に平安時代中期において、地方豪族が自らの土地を守り、勢力を拡大するために武芸に励み、時に家来を率いて戦う人々のこと。或いはそれより遡った律令下において、天皇や内裏の周囲を警護し、罪人を追捕(ついぶ)する権限を有していた武官に始まった。そして彼らが磨いた武芸、用いた武器・武具が、都から離れた郡部に拠点を置いた源氏や平氏らに継承され、武士となったとされている。
例えば、石碑にゆかりがあるとされる直江兼続は2009(平成21)年にNHKの大河ドラマ『天地人』に描き出された、「愛」の兜で有名な戦国武将である。そして源義光は、鎌倉幕府を開いた源頼朝から数えて5世代前の人物である。義光は弓馬の術に優れ、後三年の役においては、兄・義家を助け、清原一族を破った。義光の子孫は常陸の佐竹氏、甲斐の武田氏などに連なり、東国における有力な武将となった。また彼が「新羅三郎」と称されるのは、義光の父・頼義(よりよし、998〜1082)が滋賀県大津市にある園城寺(おんじょうじ)に祀られた新羅国(しらぎこく)大明神を強く信仰していたことから、三男の義光を寺の氏人(うじびと。祭神を祀り、それをもって人々を統率する人)としたことから来ている。
そして「後三年の役」とは、奥州で勢力を誇っていた豪族・清原一族の内紛を、陸奥守(むつのかみ)として京都から下向した源義家(みなもとのよしいえ、1041〜1108)によって平定された戦さである。
江戸歌舞伎として有名な「暫」は語り継がれてきたことの証左
その合戦において活躍した相模武士に、鎌倉景政(かまくらかげまさ、1069〜?)がいる。『奥州後三年記』(11世紀末〜12世紀初頭)によると、景政は合戦の折、敵方の清原武衡(きよはらたけひら、?〜1087)の部下・鳥海弥三郎に右目を射られてしまった。その矢は兜に達するほどだったが、景政は自らを構わず、弥三郎を追いかけ、殺してしまう。陣に戻って目に刺さったままの矢を抜こうとしていたところ、仲間の三浦為次(みうらためつぐ)がそれを助けようと、わらじを履いたまま、景政の額に足をかけた。すると景政は、矢で死ぬのは当然だが、生きながら顔を踏まれるのは最も恥辱であるとして、逆に為次を殺そうとした。為次は景政の豪胆さに驚きつつも、自らの非礼を詫び、膝をかがめて景政の顔を押さえて矢を抜いたという。
そのような景政の勇猛果敢さは後に、17世紀末、元禄期の江戸歌舞伎、『暫(しばらく)』となって結実した。
現在の神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮の門前で、天下を狙う清原武衡は参拝に来た加茂義綱(かものよしつな)一党に言いがかりをつけ、殺そうとした。まさにその瞬間、「暫く」と声をかけながら景政が登場し、斬りかかる清原方を斬って捨て、義綱を救出し、花道を退くというものだ。
「暫」が江戸歌舞伎にまでなった理由
『暫』は単に過去の英雄譚を描いたものではない。歴史学者の鈴木哲・関幸彦によると、『暫』は毎年の顔見世興行の中で上演され、祭祀劇としての性格をもつ作品であり、戦乱で命を落とした人々の魂を鎮める御霊会(ごりょうえ)の行事として位置づけられていたという。
そして『暫』が作られた当時の江戸は、平安末期〜戦国時代までの、「一所懸命」「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」などの言葉に象徴されるような、時に野蛮で勇ましい、ある意味関東武士らしい武断政治から、経済が発展し、戦乱も起こらない天下泰平の世における官僚的かつ貴族的な文治政治へと武士の体質が大きく変化した時代だった。しかし江戸の町人たちは、かつての武士たちに見る、名誉を重んじ、自分を省みることなく闘争心むき出しで敵に向かっていく、荒削りな関東武士への憧憬を有していた。それが自らも武人のようであろうとする、潔くも血気盛んな「江戸っ子気質」を醸成したと指摘している。
日本全国に存在する665の塚 一つ一つに存在する言い伝え
また、「平塚の碑」のような塚は、沖縄県を除く日本国内に、大小合わせて665基もあるという。古くは天智(てんち)天皇の長子・大友皇子(おおとものおうじ、648〜672)や平将門(たいらのまさかど、903〜940)、新しいところでは江戸の幕末期(1853〜1869)に活躍した志士たちがある特定の「場所」にゆかりがあるとして、それを祀る塚や石碑が作られてきたことに関し、民俗学者の室井康成は、それらが過去の戦死者の記憶の依代(よりしろ)として機能してきたと指摘する。
過去の戦死者の多くは、死者自身の出身地や長らく暮らした場所ではなく、自分にとって全く関係のない場所で亡くなっている。そうした死者たちがふるさとに戻ることができず、そして生前親しかった人から手厚く葬られ、なおかつ命日や彼岸・盆などに定期的に慰霊儀式を行ってもらえないことに対して、憐憫の情を持ったり、逆に何らかの祟りがあると恐れる。そして死者の魂は葬られた場所に永遠にとどまり続けると捉えるようになってきたのは、江戸時代以降からであるという。また、戦国武将を含む歴史上の有名人とそうした塚が結びつけられるようになったのは、主に江戸後期以降、地域の知識人による独自の歴史考証作業が行われたことが大きい。しかも彼らが下した「史実」の真贋を疑われることなく、「事実」として人々に語り伝えられていったことが少なくないという。しかしそれを現代になって、単なる伝説でしかない、或いは歴史的事実であったと判断を下すよりも、語り継いできた人々が抱いてきた、過去の戦死者に対する追悼の念を汲み取ることが大事であると結論づけている。
歴史上の有名人でなくても、語り継がれてきた「塚」の言い伝え
今回紹介した品川の「平塚の碑」のように、有名な武将と結びつけられた形で言い伝えられてきた塚は日本全国にたくさんある。
東京都千代田区大手町にある平将門の「首塚」のように有名なものでない限り、小さな塚であれば、たとえ塚の近くに住んでいたとしても、そのいわれを知らない多くの人々は、何の意識もせずにそのそばを通り過ぎてしまう。
「地域おこし」「郷土史ブーム」と言われる昨今だ。忙しい日常から離れ、室井が言う「過去の戦死者の記憶の依代」としての小さな塚に、時には足を止めたいものだ。有名な戦国武将でも、または名も無い武士であっても、誰かが「この辺り」で不本意な形で亡くなってしまった。そしてその誰かを手厚く葬り、忘れずに語り伝え、祀り続けてきた人々がいたことに思いをはせることも大事なのではないだろうか。自分が「今、ここ」に在るのは、ただ物理的に「ここ」に在るだけのことではない。自分が「ここ」に在る以前から「ここ」に在った、小さな塚を含めて、「ここ」に在るのだから。
参考文献
品川の歴史シリーズ〈no.9〉地名編、 普及新版日本歴史大辞典4と5、 品川区史料 7:石碑、 品川区史料 13:品川の地名、 しながわの史跡めぐり、 日本古代中世人名辞典、 揺れ動く貴族社会 (全集 日本の歴史 4)、 日本中世の歴史 2:院政と武士の登場、 闘諍と鎮魂の中世、 、 品川区史 2014 歴史と未来をつなぐまち しながわ、 首塚・胴塚・千人塚 日本人は敗者とどう向きあってきたのか、 シリーズ日本中世史 1:中世世界のはじまり