イギリスのヴィクトリア女王の治世(1837〜1901)において、1851年のロンドン万国博覧会に始まり、1873年の大不況までは、イギリス史上最高の繁栄時代と言われている。それは世界で最初に産業革命を成し遂げた結果、イギリス国内において石炭と鉄を利用した重工業が発達した。そしてそこで生産されたものが輸出され、世界の工場として世界経済に君臨したこと。更にインドやニュージーランド、アフリカ等など、世界の各地を手中に収めたこと。最終的にそれらの富の集積によって、イギリスが世界の自由貿易網の中心となったからである。
繁栄時代を作る1つの要因となった17、18世紀の生活革命、大衆消費社会
イギリスが19世紀に、文字通りの「大英帝国」となり得たのは、そればかりではなかった。ヴィクトリア女王以前の17、18世紀のイギリスにおいて、「生活革命」「大衆消費社会」が始まったことも大きな要因のひとつである。
まず、産業革命に後押しされる格好で富を築いた、地方在住で新興のジェントリ(郷紳、ごうしん)やヨーマン(豊かな農民)が台頭し始めた。彼らは地元の領地で夏を過ごした後、議会が開催される冬になると、首都・ロンドンに赴き、旧来の貴族階級が独占的に行なってきた社交パーティーに出席した。そこで得た最新の流行や情報、アジア各国からもたらされた、繊維製品や陶磁器などの新奇な豪奢品を彼らは地域社会に持ち帰ったのだ。それまでのイギリス社会では、キリスト教の倫理観によって、「退廃」「墓場」のように見られてきた「都会」のロンドンは、経済的・文化的交流・交渉の場として「洗練され、商売上手な」エリートたちが集まる最先端の情報ネットワーク拠点となっていった。そしてジェントリやヨーマンを下支えした労働者の賃金や生活水準も徐々に向上し始めた。彼らもまた、日常生活に必ずしも必要ではない嗜好品や富裕層が好む、高価な舶来物産の模倣国産品を買い求めるようになっていったからである。
そしてイギリス国内で徐々に高まったモラルへの関心
それと同時進行で、18世紀後半から19世紀初頭ぐらいから、イギリス社会全体にモラルへの関心が高まっていった。それは、産業革命によって国全体は豊かになっても、全ての国民が豊かであったわけではないという矛盾。そして、プロテスタント国のイギリスと、カトリック国のフランスとの間で長らく続いていた第2次英仏百年戦争(1689〜1815)によって、プロテスタントという宗教意識を媒介として、国民としてのアイデンティティが強調されてきたこと。その結果、主に中産階級の個々人に対して、男性ならば、家庭生活の重視・勤勉・自助努力などによって他人から尊敬されるに値する人物、すなわち、「ジェントルマン」(紳士)であること。女性ならば、「女性の居場所は家庭であること」、「貞淑さ」、「道徳の守護者」であることが求められるようになってきたことが理由とされている。
しかもそうしたモラルは、国の支配者であるヴィクトリア女王に対しても、国民の側から求められていた。また、女王を含む支配層も、ヴィクトリア女王は「君主」であるばかりではなく、「国の母」として、求められるイギリス女性像を自ら「演出」するようになっていったのだ。
女王としてあるべき姿と、女王の本当の性格
現実の女王はよく笑い、歌や踊り、夜更かしや社交が大好きな、ある意味活発な人物だったという。しかし1840年のアルバート公(1819〜1861)との結婚以降、単独で絵画に描かれたり、写真に撮られることはほとんどなかった。
常にアルバート公と共に、「女王夫妻」として並び立った。その後9人の子どもに恵まれてからも、家族全員揃った「女王一家」という「イメージ」を国民の前に提示し続けた。絵画や写真のみならず、女王をめぐる「語り」においても同様だった。
女王は世界の中心地たる「大英帝国」を司る、男顔負けの勇猛さや知性、冷徹さを持つ人物ではなく、妻として従順に従い、何事にも控え目で、それでいて君主としての務めは忠実に果たす、「夫や子どもたちに囲まれた幸せなミドルクラスの家庭をつかさどる妻、母」として表象されていたのだ。それは、ピューリタン革命(1640〜60)や名誉革命(1688〜89)以降、イギリス国内に広く認識され、主張されるようになった「市民意識」から来る「国民主権」の理念を強く持った国民から、旧弊な君主制への批判や打倒を求める意識を巧みにそらす方策でもあったのだ。
追悼でも発揮された女王のイメージ戦略
そのような女王側の「メディア戦略」は、「追悼」においても、また同様になされた。
1861年12月、42歳の若さでアルバート公が腸チフスで亡くなった。「未亡人」となった女王は「雲隠れ」さながら、表に出ることが極端に減った。アルバート公の死後、40年続いた女王の治世のうち、女王が公務である議会の開会式に登場したのは、たった6回だけだったという。それはもちろん、女王や支配層の「戦略」だった。当時のイギリスでの「未亡人」の服喪期間は2年とされていたが、女王はそれを超えた1863年10月に、国民の前に姿を現した。それは、イギリス、スコットランド北東部のアバディーンでの、アルバート公を顕彰する像の除幕式だった。
そこで国民は、女王が夫を追悼するために「引きこもっていた」ことを知る。しかし現実の女王は、公の死後間もない1862年1月に、銅像用のデッサンを吟味し、発注しようとしていたのだ。その後、ウインザー城内に公の巨大な霊廟建築の準備を進める中、公の胸像を囲んで思い出を語る女王一家の写真が女王の依頼によって撮影され、広く国民に公開された。また、1868年には、公の思い出を『ハイランド日誌』として出版させた。それは当時のイギリス社会で流行し始めていた、死者への「弔慰(ちょうい)アルバム作り」の気運に乗った女王の「作戦」だったとも言える。
そして見事に成功した女王のイメージ戦略
本来ならば、政治や宮廷儀式にほとんど登場しなくなってしまった女王とは、「君主」としての不在を意味するものである。場合によっては君主制のみならず、イギリス国体そのものも不安定にさせてしまう。しかし逆に、女王の追悼の態度は、国民が求める「献身的な妻、慈悲深い母」のイメージに加え、「悲嘆にくれながら夫の記憶に頭を垂れる未亡人」という、理想の未亡人像をも体現することになった。
それは旧来の絶対的な権威・権力を有する「君主」としてのありようではなく、当時の近代的かつ、「市民」による繁栄を誇ったイギリス社会に即した「お手本」であり、なおかつ「親しみやすさ」を有する「帝国の母/妻」にシフトチェンジすることにも成功したのである。そしてそれは結果的に、現代のイギリスに王室が廃絶されることなく存在し続け、国民から敬愛されていることの堅牢な基盤ともなったのである。
ただし夫の死を政治利用したわけではない
ヴィクトリア女王は「政治利用」ではなく、心の底から夫・アルバート公を愛し、若くして喪うことになってしまった悲しみにくれたことは言うまでもない。しかし女王は、当時のイギリス国民が求めていた、夫に従順で慎しみ深い、ある意味、「強い」男性に守られなくては生きていけない「か弱い」女性ではなかった。
女王には大英帝国の君主としてのプライドや知性、豪胆さ。そしてそれらに裏づけられた、アルバート公を「追悼」するその自分を俯瞰して眺める男性的な気質や能力を有していたことで、自らの喪に服す「慎ましい」態度を国民に示すことができた。それによって、イギリスの君主制や国体そのものを揺るがすことなく、今に継承させることができたのだ。
最期に…
我々は19世紀のイギリスにおいて、ヴィクトリア女王同様の重責や立場を担うことは決してない。しかし、自分にとって大切な人を喪う機会がある点においては、ヴィクトリア女王と同じである。そこで悲しみに乱れ、泣き叫び、まともな判断が下せなくなってしまった自分であったとしても、決して卑下することはない。
心や現実生活の「準備」をする時間がない突然のことであれば、なおさらだ。しかし、女王の強さや冷静さ、そしてしたたかさを持つことも、時と場合によっては必要だということを頭の片隅で意識するだけでも、違ってくる。何故なら、生きているありとあらゆる生き物すべての死は避けられず、絶対に訪れる、実に悲しく、やりきれないものだ。だからこそ、愛する者の死と対峙した時に「どうするか」もまた、自分自身の生き方やありようが問い直される機会でもあると言える。
参考資料
■パクス・ブリタニカの盛衰、 世界各国史11:イギリス史、 大英帝国という経験 (興亡の世界史)、
■近代イギリスの歴史 16世紀から現代まで