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大阪市天王寺区にある日本最古の仏教寺院「四天王寺」のエンタメ要素

文部科学省は学習指導要領を改定し、2020年度から小学校社会科教科書の「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」の表記にすることを決めた。それは「聖徳太子」は死後の呼称で、歴史学的には「厩戸王」が一般的であるからという。

かつては1万円札に採用された「聖徳太子」だが、1984年に「福沢諭吉」に変更後、生活密着のシンボルから「十七条憲法」、「和をもって尊しとなす」で知られる歴史上の一人物として遠ざかってしまったと感じるのは筆者だけだろうか。そのような「聖徳太子」のなしたことが今日に至るまで継承されている場所がある。聖徳太子が建立した、「四天王寺」だ。

大阪市天王寺区にある日本最古の仏教寺院「四天王寺」のエンタメ要素

戦に勝つために作られた四天王。無事勝てたときは四天王寺を作ると決めた。

四天王寺は大阪市天王寺区に位置する大寺だ。大阪の人々からは「天王寺さん」と呼ばれ、親しまれている。『日本書紀』の崇峻天皇2年の条によると、仏教伝来当時の587年7月に、用明(ようめい)天皇が重臣たちに、仏教に帰依すべきか否か、意見を訊ねた。そのことから、仏教受容派の蘇我氏と、反対派の物部氏とのいくさが勃発する。

このとき、用明天皇の皇子であった聖徳太子は蘇我氏側に立った。そこで太子は髪を束ね、いくさに破れないようにと、白膠木(ヌルデ。ウルシ科の落葉植物)で仏界の守護神である持国(じこく)天・増長(ぞうちょう)天・広目(こうもく)天・多聞(たもん)天の「四天王」をつくり、それらを頭の上に頂き、「もしも自分を守り、いくさに勝利させてくださるなら、四天王のための寺塔を建てて、仏・法・僧の三宝(さんぽう)を世に広めます」と請願した。

仏の加護のおかげか、いくさは蘇我氏側が勝利した。太子は約束を守り、摂津國(現・大阪府北中部と兵庫県南東部)に四天王寺を建立した。日本初の官製の寺である。その後四天王寺は、推古天皇の代の593年に難波の荒陵(あらはか)に移された。寺が建てられた土地は、近年の発掘調査によって、四天王寺東門(とうもん)付近から円筒埴輪棺が出土したことから、本来は古墳があったことが推察されている。

聖徳太子の死後も衰えることがなかった四天王寺

しかも当時の四天王寺を含む難波周辺は海に囲まれており、中国や朝鮮半島からの船が到着する、日本の表玄関とも言える場所だった。それゆえ、朝鮮半島の諸寺を手本とし、7世紀後半までには完成したとされる、「四天王式」と呼ばれる、中門・五重塔・金堂・講堂が南北一直線に並び、中門と講堂を結ぶ回廊が塔と金堂を包む壮麗な大伽藍は、国家鎮護、外敵・天災を除き、民の平和を守るのみならず、国威を示す役割を果たしてもいた。

聖徳太子の死後も、四天王寺は決して衰えることはなかった。大化の改新(645年)によって、都が難波に移された。そして600年創建と伝えられる今宮戎(いまみやえびす)神社が四天王寺の西方の守護神として祀られるなど、宮廷と四天王寺を一体のものとして、都の整備が進められた。648年には阿倍内麻呂(あべのうちまろ)が仏像を4体安置し、「四天王寺」の名前を定着させた。

しかも四天王寺の場合、「官寺」としての荘厳さのみが強化され続けていたわけではなかった。もともと聖徳太子が定めていた「四箇院(しかいん)制度」、すなわち、薬草を栽培し、人々にわかち与えた「施薬院(せやくいん)」、あらゆる病人を療養させた「療病院(りょうびょういん)」、貧しく、身寄りのない人々を住まわせた「悲田院(ひでんいん)」、仏道精進のための道場「敬田院(きょうでんいん)」の4施設が、鎌倉時代に寺の別当に任じられた忍性(にんしょう)によって、復興・発展・充実することになったのだ。

宗派を超えた信仰の場として利用された四天王寺

こうした四天王寺は、聖徳太子信仰や国家鎮護のみならず、仏教が広く浸透した平安時代以降は、上皇や貴族のみならず、最澄・空海・親鸞・一遍など、太子を慕う多くの高僧が寺を訪れ、関係を深めたことから、宗派を超えた信仰の「場」としての顔も持つ、先進的で多様な寺院となった。
 1007年に発見された、太子直筆とされる「四天王寺縁起」には、「釈迦如来 転法輪所 当極楽土東門中心」、すなわち、この地が西方浄土の東門であると書かれていたこと、そして四天王寺の西門(さいもん)に、この文を記した額が掲げられていることから、「極楽門」とも呼ばれ、多くの人々が参詣するようになる。

しかも鎌倉時代に入ってからは、庶民層にも四天王寺詣でが広まっていく。かつてここで空海が、心の中で極楽浄土を瞑想しながら、それがありありと見えるように念じる行(ぎょう)、「日想観(にっそうかん)」を行なったことから、西門信仰の象徴とされる石鳥居が1292年に、忍性によって建てられた。鳥居越しに海に沈む夕日を見ながら、極楽浄土を思いながら念仏を唱える。中には感極まって海に入り、そのまま自殺してしまう人もいたという。

その後の四天王寺は、応仁の乱〜戦国時代、織田信長が石山本願寺を攻めたとき、大坂冬の陣、江戸時代の落雷、1934(昭和9)年の室戸(むろと)台風、1945(昭和20)年3月14日の大阪大空襲と、時代に翻弄される形で、何度も破壊の憂き目に遭ってきた。しかしその都度復興を遂げ、今日に至っている。1949(昭和24)年には、天台宗から独立し、和宗(わしゅう)となる。それは、「和をもって尊しとなす」の聖徳太子の思想を重んじ、「八宗兼学(はっしゅうけんがく)の寺」として、「八宗」、時宗・臨済宗・浄土真宗・真言宗・天台宗・浄土宗・曹洞宗・日蓮宗などの宗派を超えて、人々を受け入れることを意味しているという。

四天王寺が庶民に親しまれたのはエンターテインメント性を備えているからと話した五木寛之

このような四天王寺を訪れた作家・五木寛之は、四天王寺が庶民に親しまれてきた理由のひとつとして、先祖供養や現世利益のみならず、「一種のエンターテインメントというか、パフォーマンスなどが行われている」点を指摘した。

その根拠として五木は、ふたつの事例を挙げた。ひとつは、寺内の「亀の池」だ。その池はもともと、「蓮池(はすいけ)」と呼ばれ、池いっぱいに蓮が生えていたのだが、あるとき亀が放生(ほうじょう)された。そして亀はいつの間にか増えてしまい、「亀の池」と呼ばれるほどになった。亀のゆっくりとした、そしてゆかいな動きに、親に連れられ、寺を訪れた子どもたちはもちろんのこと、大人たちも魅了され、心をなごませている。

もうひとつは、聖徳太子の命日である旧暦2月22日、明治以降は4月22日に開催されている「聖霊会(しょうりょうえ)」や10月22日に行われる経(きょう)供養などの折に演じられる、1000年以上の伝統を誇る、華やかな舞楽の存在だ。それは鎌倉末期に成立したとされる兼好法師の『徒然草』に「天王寺の舞楽のみ、都に恥ぢず…(略)…外(ほか)より勝(すぐ)れたる故は、太子の御時の圖(ず)、今に侍るを累譜(はかせ)とす」と記されているように、日本国内では明治時代まで、大内(おおうち。京都の宮廷)、南都(なんと。奈良の興福寺)そして四天王寺の三方楽所(さんぽうがくそ)でのみ継承されていた、貴重なものなのだ。

また、歴史学者の脇田修は、戦国時代の1499年に、奈良・興福寺大乗院の尋尊(じんそん)が「七千軒在所」と記録していた四天王寺の門前に発達した町が、今日の大阪という大都市の前提となったと述べている。もともと、寺の近在の海岸(現・大阪湾)に市が立っていた。そこでは、米・酒・魚などの食料品のみならず、衣料品や摂津近在の菅・芦などを加工した筵や笠などの雑貨、唐物や刀剣が売られていた。そこに客として、極楽往生を願って、全国各地から四天王寺に参詣する人々が絶え間なく訪れていたことから、「宝(たから)市」と呼ばれるほど賑わっていた。

そのような四天王寺門前の繁盛は、豊臣秀吉による大坂の町づくりの際に一旦、移転・縮小されることになったが、衰えることなく、江戸時代にも続いていた。

四天王寺の門前で行われたある興行

江戸時代は、戦国時代以上に町人文化が興隆した時代である。例えば、それ以前には辻に立って演じられていた軽業(かるわざ)や手品が、盛り場のみならず、寺社の縁日に合わせる形で、小屋掛けの興行形態を取るものが盛んになったことが挙げられる。そんな中、大坂・道頓堀に住んでいた籠職人の一田庄七郎(いちだしょうしちろう)(生年未詳〜1823)は、自身の仕事の総決算として、1820(文政2)年2月に、お釈迦様の入滅(にゅうめつ)の寝姿、「釈迦涅槃像」の籠細工を作り、「天竺の僧 仮寐姿(うたたねすがた)」と銘打って、四天王寺の西門で興行を打った。

それは9尺6寸(約29m)のお釈迦様のみならず、死を嘆き悲しむ四天王、十六羅漢、鬼、そして動物や鳥といった一切衆生などを含め、合計54体作られ、釈迦入滅の様子を現前させた見世物だった。しかもそれらの細工は、ただ籠を編んで形をつくったものではなく、籠目の上に紙を貼って彩色を施し、編み目ひとつひとつが鮮やかに見える「透抜(すきぬき)」という技法を駆使した、まさに一田の仕事の「総決算」と言うにふさわしいものだった。

見世物の入場料は18文。あんかけそば1杯分の値段になる。現在の金額に換算すると、大体450円ぐらいだが、大坂の見世物小屋の相場としては、少し高めに設定されていた。しかも1820年2月の四天王寺では、聖徳太子の千二百年忌法要が12日に行われること、また、その3日後が釈迦入滅の日であるため、涅槃会(え)もある。そして春の彼岸になれば、日想観も行われる。一田はそれらの重要な行事が立て続けに執り行われることを見越した上で、およそ70日間、見世物興行を打ったと推察される。

一田による大掛かりな籠細工の見世物は、四天王寺を詣でた人々の間で大評判となった。そして口づてに伝わり、多い日では、1日に8000人近くの客が見物に押しかけたという。このような興行が門前で催されていたこともまた、五木寛之が指摘する、庶民を魅了する四天王寺の「一種のエンターテインメントというか、パフォーマンス」性の一例だと言えるだろう。1200年前に亡くなった聖徳太子は、その繁盛ぶりを極楽浄土のどこかで、喜んで見ていたかもしれない。

現在の四天王寺について「庶民的」かつ「観光寺の雰囲気がない」と話す五木寛之

五木寛之は現在の四天王寺について、寺を囲む3本の道路、行き交う人や車、林立するオフィスビル、マンションが存在するものの、一歩境内に入ると、全く違う空間が広がっている。「庶民的」「人びとの祈りや信仰の場」でありつつ、それでいて「観光寺」の雰囲気がない、と述べていた。そうした雰囲気を保ち得ているのは、ひとえに、建立を企図した聖徳太子の「和」の思想が今も寺を支えているからだろう。

「日本初の官製の寺」の近寄りがたさや抹香臭さ、または「庶民的」が昂じ、「観光寺」化された俗っぽさ、それらがいずれもない四天王寺の魅力に触れるため、機会があればいちど、聖霊会に詣でてみてはどうだろうか。親しみを込めて「おしょうらい」とも呼ばれてきた聖霊会は、四天王寺にとって、最も重要な儀礼だ。六字堂(ろくじどう)の中央に、鎌倉時代作とされる太子の肖像『楊枝御影(ようじのみえい)』が祀られ、金堂の仏舎利と聖霊院の太子像が参詣者を迎える。そして六字堂前の石舞台で四箇法要と舞楽が交互に、夕方まで厳修(ごんしゅう)される。聖霊会を満喫した後は、亀の池の亀を見たり、門前町の賑わいに身をさらす…きっと太子や太子の「和」への思いが自分から「近い」存在に思われるはずである。

参考文献

仮名日本書紀 下巻、 見世物雑志、 大阪府の歴史、 江戸の見世物、 週刊古寺をゆく 24(四天王寺) 、 江戸は見世物に満ちていた、 見世物はおもしろい、 百寺巡礼 第6巻 関西、 大阪府の歴史散歩 上 大阪市・豊能・三島、 近世大坂の町と人 (読みなおす日本史)

ライター

鳥飼かおる

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