今日の日本では、著名人のみならず、一般の人々の墓碑も、過去の伝統にとらわれない自由な形のものが少しずつ増えてきた。しかし一瞬、KOKUYOのカドケシに見えてしまう。
エルンスト・ニェイズヴェスヌイ(1926〜2016)が制作した、かつてのソビエト連邦第4代最高指導者だったミハエル・フルシチョフ(1894〜1971)の墓碑のように鮮烈なものは、まだまだ少ないのではないか。
フルシチョフの生い立ちから頂点に登り詰めるまで
フルシチョフは、ロシア南部の炭坑労働者の子として生まれたウクライナ人だ。持ち前の押しの強さや雄弁さで、政治家としての頭角を現し、第2次世界大戦当時は赤軍の指導、戦後は主に国内の農業回復に尽力した。そしてタブーとされていたスターリン批判を行うと同時に、政敵を失脚させ、1957年に共産党第一書記兼首相となり、頂点に登りつめた。
そして、1959年にソ連の指導者として初めてアメリカを訪問し、平和共存を主張した。「雪解け」という言葉に象徴される当時の政情の影響から、国内では西欧のモダニズム思想、芸術分野では印象派、シュルレアリスム、アクション・ペインティング、そしてジャズやハリウッド映画などが解禁になった。
しかしフルシチョフ自身は必ずしも、最先端の芸術を「理解」、「擁護」していたわけではなかった。1962年11月に、「ロバの尻尾事件」と呼ばれる、フルシチョフと前衛芸術家たちの衝突事件が起こった。そこでフルシチョフと激論を戦わせたのが、ユダヤ系の彫刻家、ニェイズヴェスヌイだった。
一方、ニェイズヴェスヌイは?
ニェイズヴェスヌイはロシア中央部、ウラル山脈東部に位置するスヴェルドロフスクで生まれた。殊に彼が育ったウラル山中は、反共産主義者と共産主義者両方の亡命者が多かったことから、知的・政治的に緊張した雰囲気だったと言われている。第2次世界大戦中の1943年、彼は16歳で軍隊に志願し、ドイツ軍と戦った。その際受けた銃弾が胸部を貫通し、背中で破裂したために重傷を負った。しかし周囲からは、彼は死んだものとして、地面に放置されたままだったという。
その体験から彼は、一切の表現活動が国家の統制下に置かれていたソ連で唯一公認されていた、スターリンや共産党、労働者を称えることをモチーフとした社会主義リアリスムを乗り越え、共産党および、その公認を得た芸術アカデミーから疎外されながらも、人体の各部位をグロテスクなまでにデフォルメした多くの作品を作り続けていた。
フルシチョフとニェイズヴェスヌイの初対面
1962年に、ニェイズヴェスヌイを含めた前衛芸術家の展覧会が、クレムリン脇のマネージ館で開催された際、フルシチョフを先頭に、およそ70人の幕僚が訪れた。並べられていた実験的な芸術作品の数々にフルシチョフは「これは犬の糞だ。けがらわしい」と激昂した。それに対してニェイズヴェスヌイは「あなたは首相で議長かもわかりませんが、ここの、私の作品の前では、そうじゃありません。ここでは私が首相です。ひとつ対等に話し合おうじゃありませんか」と抗弁した。それに対して幕僚のひとりが、「お前はいったい誰に向かって口をきいていると思うのかね…(略)…君はウラニウム鉱山に流刑することにする」と恫喝した。それを受けて2人の保安部員がニェイズヴェスヌイの腕を捕えた。
すると彼は、「あなたは、いつなんどきでも自殺できる男に向かって話しているのです。あなたのおどかしなどは私は何ともありません」と答えた。幕僚は保安部員に、ニェイズヴェスヌイの腕を放すように命じた。体が自由になったニェイズヴェスヌイは無言で、自分の作品の前まで歩き出した。フルシチョフや幕僚たちもそれに続いた。再び、議論が激しくなった。しかし小一時間たったところで、いつしか2人は和やかになっていった。
フルシチョフはニェイズヴェスヌイに尋ねた。「君はスターリン治下の芸術のことをどう思うかね」。ニェイズヴェスヌイは「ひどいものですね。そして同じ種類の芸術家があなたをだましているのです」と返した。フルシチョフは「スターリンの用いた方法は間違っていたが、芸術そのものは間違っていなかったよ」と穏やかに言ったという。
微妙な距離感を保ったままの二人のその後
会場を出る際は静かな別れで終わったが、その翌月に行った演説の中でフルシチョフはおよそ2時間、ニェイズヴェスヌイや他の前衛芸術家たちを非難し、「我々は今後とも、かような作品を容赦なく、公然と排撃するつもりである」と宣言した。
その後もフルシチョフは、何度かニェイズヴェスヌイと対面した。そこで彼は何故そんなに長く、国家の圧迫に抵抗してこれたのかを尋ねた。するとニェイズヴェスヌイは、「犀のひずめでも溶解させる濃食塩液の中で生きていることができる、ある種のバクテリアがあります。ごく小さい、やわらかいやつですがね」と答えたという。
保守的かつ激情型の性格のみならず、物事への柔軟性を有したフルシチョフだったが、ニェイズヴェスヌイが国から認められる存在になったわけではなかった。そのため以前にも増して、彼の創作活動に圧迫が加えられるようになった。しかし彼は、決してそれに屈したり、権力におもねることはなかった。
一方のフルシチョフは、次第に指導力を失っていった。共産党を農業と工業に2分割し、指導部の交代制を導入したことで官僚層に不満を抱かれ、1964年10月に行われた臨時中央委員会総会において、失脚してしまう。そして死までのおよそ7年間、KGBの監視下に置かれた格好で、モスクワ郊外の別荘地で過ごした。
フルシチョフの墓石の制作をニェイズヴェスヌイに依頼
フルシチョフの死後、遺体はレーニン廟があり、歴代の高官たちが祀られてきた、モスクワ中心部の赤の広場脇ではなく、ノヴォデヴィチ女子修道院に併設された墓地に葬られた。
社会心理学者の辻村明は、フルシチョフの死後1ヶ月後に、その墓を訪れている。多くの人が墓参に訪れていたというが、その時はまだ、墓にはフルシチョフの写真が飾ってあるだけだったという。しかしフルシチョフの息子・セルゲイはフルシチョフの告別式のときから、墓石は優れた芸術家の手で制作されるべきだと考えていた。セルゲイは周囲の勧めに従い、1962年の「ロバの尻尾事件」の折にフルシチョフと衝突した彫刻家・ニェイズヴェスヌイに依頼することを決意する。
一方のニェイズヴェスヌイは、フルシチョフの死後もなお、表現の自由が国内に存在しなかったことから、不遇な状況が続いていたにもかかわらず、墓石制作を快諾した。
快く受けたニェイズヴェスヌイ
「それは過去のことだ。私は彼を尊敬している…(略)…私は彼を好ましく思い出す…(略)…多くのことが明らかになった今では、彼の野心に共感を覚えざるをえない。従って、個人的な怨念についてではなく、ひとりの政治家のための記念碑について話そうではないか」とセルゲイに言った後、彼は即座に画用紙にスケッチを描き始めた。
垂直の石で、半分が白、半分が黒く陰になって見え、下には大きな床板が置かれたものだった。デザインに関してニェイズヴェスヌイは、「白と黒はさまざまに解釈できる。生と死、昼と夜、善と悪。それはすべてわれわれに、われわれの考えに、われわれが世界をどう認識するかにかかっている。白と黒の組み合わせは、統一と死に屈する生の戦いを象徴する最もよい手段だ。これらの2つの原理は、個々人の中で緊密にあざなわれている。従って2つの石は均整を欠いていながら、融合してひとつの全体になっていなければならない」と説明した。そして著名人の墓につきものの彫像に関しては、不要であるとして、「フルシチョフの墓で提供したいのは一種のシンボルである。彫像は、誰も知らない人間の外貌を後世に伝えたい時につくるものだ。フルシチョフの顔は皆によく知られている」と述べた。
資材調達の困難、共産党本部からの横やり、更にはニェイズヴェスヌイ自身のこだわりゆえに、フルシチョフの死後4年を経て、ようやく墓石が完成した。完成後墓所を訪れたセルゲイは、「墓石はフルシチョフに対する関心をかきたて、それを浮上させたのだ。フルシチョフとニェイズヴェスヌイ、2人はそれぞれにその名声で支え合い、照らし合った」と、感無量の言葉を述べていた。フルシチョフの墓石を制作した後のニェイズヴェスヌイは、国内で更に自らの立場を悪くし、1976年にスイスに亡命することになった。1985年に「訪問」という形で帰国したものの、ニューヨークを拠点として、2016年8月に亡くなるまで、精力的に芸術活動を続けた。
その人のその人らしさ、良い点も悪い点も認めることが重要である
必ずしも自分自身に非がなくても、誰かとの対立、不和、誹謗中傷、憎み合い、更にはそうした過去の出来事や人物をなかなか忘れることができず、怒りや恨みが心の奥底で増幅し続けることは、人間誰しも、経験することだ。
殊に遺恨が頭から離れず、それに縛りつけられた格好であるのは、結果的に自分自身を苦しめ続けていることになる。憎んでも憎みきれない敵と言っても過言ではない相手をどこまで「許せる」か、または「友だちになる」「仲直り」することまでは叶わないにしても、相手の存在を認めること、そして敬意を払うことができるかが、相手のためではなく、自分のためになる。もちろんそれは、「キレイゴト」かもしれない。自分の頭ではわかっていても、心まで変えることは実に難しい。だからこそ、人間から悩みの種が尽きることはないのだ。
ニェイズヴェスヌイは、芸術面での「天才」だったのみならず、人間が持つ弱さや醜さをも超克できた芸術家だったのだ。
最後に…
世間一般において、作者自身の性格や思想、そして途中経過やプロセスは一切関係ない。「結果」だけが全てだという風潮がある。ニェイズヴェスヌイが作り上げた「結果」だけをフルシチョフの墓石に見るのは、それはあまりにも表面的で軽率なものの見方だと、筆者には思われる。
フルシチョフとの論争以前から、ニェイズヴェスヌイは権力と戦いながら、常に命がけで創作活動を行ってきた。論争のまっただ中、論争後、そしてフルシチョフの死を経て、墓石を制作するに至った日々…ニェイズヴェスヌイが「結果」としての作品を生み出すまでの、言葉にならない言葉、考えにならない考え、形にならない形こそ、我々のように作品を観る側の人間は、現実的に聞こえない、わからない、見えないにしても、見極めなくてはならない。