江戸時代の人々は、故人の遺体や遺骨、あるいはそれらに関する物事に対し、「穢れた不吉なもの」として非常に忌み嫌う一方、ごくごく当たり前に存在するものとして、タブー視しないこともあった。
更に時と場合によっては、「ありがたいご利益をもたらすもの」として、尊ばれることすらあった。いわば、当時の日本では、遺体や遺骨というか死者の位置付けは、極めて多義的なものであり、一言では言い表せないものであったといえる。
古着古布の売買が流行した江戸時代
そんな江戸期の日本では、現代では思いもよらないような意外なビジネスが、実は死者と切っても切れないものであった。そのビジネスとは、かつての日本ではなくてはならない業務の一つであった、古着・古布の売買業務であった。
往時の日本が徹底したリサイクル社会であったことは、よく指摘されている。そうした中で、非常に重要なリサイクルすべき資源の一つが、人が日常に、あるいは晴れの席で着用する着物であった。特にいわゆる上等な着物は、一般庶民には簡単に買えるものではなかったので、古着となったものをより安価に買えるという点でも、こうした古着市場の存在は重宝した。
主な仕入れ先は死者が着ていた衣類
そうした古着は、どのように調達されたのであろうか。現代のように、今まで自分が着ていたものを、本人や家族などが自分の意思で買い取ってもらったり、あるいはある程度上等な着物の場合、質流れ品を買い取ったりというケースも少なくないだろう。しかし、和服が日常的に着用されていた時代には、もう一つ重要な買い取りルートがあった。それが、いわゆる「湯灌場買い」であった。
故人の遺体を納棺する際、死装束を着せる前に遺体を洗う「湯灌」は、当時は専用の場所(これを湯灌場という。寺院の敷地にもあった)で行われた。この湯灌場は、ある程度公の場でもあったようであり、そこには古着業者が出入りして、故人が着ていた生前の着物を、遺族から買い取ることが一般的であった。
こうして湯灌場で故人の遺族から買い取った着物は、「湯灌場物」と呼ばれた。そして、こうした流通ルートは、現代でいう企業秘密とはされず周知の事実であった。有名な逸話なので詳細は省くが、こうした湯灌場物の着物に関する都市伝説の一つに、1657年の江戸で起こった明暦の大火(別名「振袖火事」)の原因とされる逸話がある。しかし、どこまでが実話なのかは、わかっていない。
参考文献:江戸の町は骨だらけ