「日本人は、故人の遺体や遺骨を決してぞんざいに扱うことはしない」こんな常識が、現代では一般的である。しかし、本当にそうだろうか。そもそも、何が「遺体や遺骨のぞんざいな扱い」に該当するのかということ自体、実は極めて相対的なものである。
例えば、現代日本で極めて一般的な火葬も、火葬が非一般的でありタブー視の強い国や地域では、「遺体の非常にぞんざいな扱い」とされるだろう。日本国内ですら、新しい時期まで土葬が一般的であった地域や宗教宗派の高齢者の間では、そのような見方が若干残っている。
ぞんざいかどうかは民族や地域・宗教の違いによって変わる
そうした、民族や地域、宗教などの違いによる葬儀習俗の違いだけでなく、「故人の遺体・遺骨へのこだわり」は、実はいわば「世間」「空気」によって押し付けられた習俗でもあるという側面も、見逃すことはできない。
近代になる前の日本では、故人の遺体・遺骨へのこだわりは決して強くなく、現代では「ぞんざいな扱い」とされそうな弔い方が一般的であった。これには様々な理由があるが、一つには「故人の魂は、遺体や遺骨には宿らない」という信仰があったということが挙げられる。従って、当時の常識では、決して「ぞんざいな扱い」ではなかったのである。
明治以降は遺体や遺骨へのこだわりが強くなる
しかし、明治時代に外国との戦争が始まったことにより、遺体や遺骨に関する信仰は変わってくる。異国の戦場で戦死した肉親を悼む遺族にとって、日本に運ばれてくる戦没者の遺骨は、故人を偲ぶ拠り所となった。
このことは、戦没者の遺族でない人々の間にも、「故人の遺骨にはこだわるべき」という「空気」、そして「故人の魂は、遺体や遺骨に宿る」という信仰をもたらした大きな原因となった。そして他の様々な理由も加わり、この価値観は強く日本文化に根付いて、今に至っている。
散骨は、遺骨へのぞんざいな扱い方として見ることもできる
ところで近年、日本でも散骨や自然葬が注目されている。しかしこの種の葬法は、いわゆる「保守的な日本人」の多くにとっては、まさに「遺骨のぞんざいな扱い」であった。また、『千の風になって』という歌が流行したことは記憶に新しいが、この歌の歌詞は、死者が「私は墓にはいない。自由な風になって、大空を渡っている」と生者に告げるものである。
近代以降の常識では、「遺骨のぞんざいな扱い」に該当するとされる葬法を希望する人々や、死者の魂は墓には宿らないという内容の歌の登場は、一つにはこの、「故人の遺体・遺骨へのこだわり」の押し付けへの、無意識な異議申し立てとしての側面も、ないとはいえない。
参考文献 海外戦没者の戦後史 遺骨帰還と慰霊、墓は、造らない 新しい「臨終の作法」