平安時代〜鎌倉時代初期に書かれた様々な記録や文芸作品には、当時の身分の低い貴族や庶民のうち、特に貧しかったり身寄りがなかったりする人々の死がよく書かれる。
それらの記述では、近所の人々などが故人の死を悲しむ場面が出てくるが、一方で彼らは葬儀や埋葬の手助けをしないというくだりが多い。
そしてその「葬儀や埋葬の手助けをしないこと」は、ごくごく普通のこととして扱われている。
死者に触れると穢れるとされていた平安時代
それは、この時代は亡くなった人に触れたりすると、「穢れた」とされたことが大きな理由である。そしてその「穢れた」状態は伝染すると信じられていた。
この時代の記録を読むと、上流貴族の世界でも突然死があると、周りの人々は「穢れた」状態になることを恐れて、一度その場から逃げてしまうことが多かったことがわかる。
これは当時の人々が人間としての情に欠けていたからではなく、それほどまでに、「穢れた」状態になることが恐れられていたからである。
風葬も行われていた平安時代
葬儀や埋葬を行う場合には、そうした「人の死に関すること」を一手に引き受ける人々に任せていた。
その費用が準備できないほど貧しい場合(当時は一応貴族の身分であっても、実際にはそのように貧しい人々もいた)は、街外れや野山、川や海の近くに遺体を放置(風葬)していた。
平安京では、市街地であってもそうした貧しい人々の遺体が放置されていた。なお、後にそうした死者のために共同墓地が作られたが、それは寺院墓地のルーツの一つであるともいわれる。
ちなみにこの時代の文芸作品、特に仏教の僧侶に関する話を集めた作品にしばしば書かれた逸話がある。それは書物によって細かい部分が異なるが、粗筋は大体このようなものである。
「ある僧侶が大きな寺院や神社に参拝する途中、身寄りのない貧しい死者を風葬場まで運んでやる。そのため僧侶は「穢れた」状態になってしまったと信じるが、彼は神仏に褒め称えられる」
このストーリーでは、主人公の僧侶が貧しい死者を風葬場へ運んでやったことが明らかに「美談」として語られている。
火葬は一部の貴族にのみ認められた高級な葬儀だった
ところで、この時代の文芸の代表作である『源氏物語』には、主人公光源氏の愛人の一人で貧しい貴族の娘、夕顔が突然死するくだりがある。
彼女は光源氏の家来たちによってきちんと火葬される。当時の常識では、彼女の本来の身分としては考えられないほどの高級な葬儀であった。
このことを今まで述べたことと照らし合わせると、実は作者紫式部は、光源氏が家来たちに命じて夕顔を火葬したことを、「美談」のつもりで書いたのではないかとも解釈できる。
そして、いわばリアルタイムの読者であった当時の貴人たちも、この話を「美談」として読んだのではないだろうか。