正月早々にネットニュースで墓友について報じられていた。
最近注目を集めていることは知っていたが、内容に関する知識が殆ど無かったので調べてみた。
今回のコラムは墓友について思ったことを綴ってみたい。
墓友とは一緒にお墓にはいる友人のこと
最初にこの言葉に接したのは、東日本大震災の直後だったと記憶している。
当時平日の昼間にもかかわらず輪番停電の最中で、パソコンが使用できず、仕事にならなかった。そうかと言ってサボるわけにもいかなかったのだが、職場の誰もが大同小異の状況で停電が終わるまで待機していた状態だった。
筆者は同僚が持参した週刊誌を借りて読んでいたのだが、その週刊誌に新たな友の形態として墓友が紹介されていた。
聞いたことのない言葉だった。最初は一緒に墓参する相手のことかとも思ったが、何と一緒に共同墓地に入る相手のことと知り、少々驚いたものだ。その時点では詳細な内容について興味が無く、記事について大雑把に目を通しただけで、理解していなかった。
しかし、数年前に筆者の実妹と会話していた際に、墓友の話しが出た。
墓友にする理由、それは子供たちに墓守としての煩わしさを押し付けたくないから
実妹曰く、嫁ぎ先の墓に入るつもりは無い。共同墓地に入る。実家の墓(筆者が入る墓でもある)にも入るつもりも無いとのことだった。
理由は墓守を子供達に押し付けたくないし、煩わしいからだそうだが、聞いた時点では好きにしろと言っておいた。
筆者自身は、自分達家族の墓を守っていくことに異存は無く、現在においても墓参や維持についてしっかりやっている。しかし、冒頭に綴ったネットニュースに接した後、実妹とLINEで正月の挨拶をした際に墓友について聞いてみたところ、既にSNSにて一緒に共同墓地に入る「仲間」を見付け、SNSやLINEで終活について議論していると言っていた。
墓守としての責任とコスト。世代を超えて受け継ぐものと考えるとなると…
その後筆者自身も考えてみた。
墓守については、今のところ特に問題はない。しかし、次の世代はどうか。また、次の世代とは言っても、筆者自身老齢となりあまり身動きが取れなくなった場合、墓守を託せるのか。
そして、墓守のコストの問題もある。
現在の墓制が何時頃成立したかは知らないが、あくまでも墓守が居ることが前提であり、しかも墓守が代々継承されないと成立しないものである。だが、その前提が果たせない場合には墓制そのものも無意味になってしまうに違いない。そう考えてみて、共同墓地に入るというのも合理的な選択として一考に値するものと思った。
墓終いも同じようなものだろうし、今後の終活においても選択肢を拡大するのは歓迎すべきかもしれない。様々なことを考えたが、現在の結論としてはできる限り墓守を継続する。体力やコストの面で継続が困難となった場合には、墓終いしてご先祖共々共同墓地に入るとした。確定したわけではないが、状況に応じて考えて終活をしていくことも悪くないだろう。じっくりと考えることができた正月休みだった。