2010年1月13日の午前中に突然その時はやって来ました。一緒に暮らしている82歳の伯母と79歳の母が連れ添って、近所の整骨院に出かけたのですが、整骨院の玄関で伯母が転んでしまい、そのまま意識不明となりました。すぐに救急車を手配し、伯母は大学病院へと運ばれました。兄と私もすぐに病院へと駆けつけました。
救急の治療室のベッドに横たわっている伯母を見ると、伯母は意識障害が残っている様子でした。外傷は頭に負っていて、包帯が巻かれていましたが、それ以外には大したケガもなく、治療も済んだので、母と兄と私の三人で伯母をタクシーに乗せて、一旦は家に戻りました。
ところが、伯母の意識障害がいつまでも治らず、うわ言や編み物をしているかのような妙な動作を伯母は繰り返しました。このままでは大変だと思い、私は再び救急車の手配をしました。すぐに救急隊員の方々がやって来てくださり、伯母は再び大学病院へと運ばれました。
伯母の診断結果は低ナトリウム血症
医師の診断の結果では低ナトリウム血症という病気で、認知症に近い症状でした。つまり伯母は呆けてしまったということです。幸いにも医師は入院を勧めてくれました。
家族は安心して家に帰りました。
翌日から、私は毎日、大学病院へと足を運びました。ところが伯母の意識障害はなかなか治ってくれませんでした。それでも、私は伯母の入院中の身の回りの世話をするために、せっせと病院に通い続けました。すると、入院から10日後に初めて私の名前を伯母が呼んでくれました。それまでの伯母は一緒に暮らしていた私のことも誰なのか識別が出来ていませんでした。けれど、きちんと私のことをわかるまで回復してくれたのです。
この時ほど私が喜んだことはありません。
治療は順調に進み、伯母に回復の兆しが見え始めたのです。しかし、安心したのもつかの間の事でした。医師から家族が呼び出されました。伯母は脳腫瘍とすい臓癌に侵されていたのです。入院中に医師が検査して発見してくれました。そして、余命は1年だと宣告され、病院側としても積極的な治療は難しいと言う事でした。伯母の意識障害が完全に治ったら、退院して、あとは近所の掛かり付けの内科医と大学病院が連携して、伯母の残された時間を診て行くということで話がまとまりました。
また、家族三人で話し合った結果、伯母には病気のことは全て伏せることになりました。告知はせずに、家族で見守ることに決めたのです。
本格的な介護生活がスタート
2月12日に伯母は退院となりました。本格的な介護の始まりです。家に帰った伯母は嬉しそうでした。家の中を自由に歩き、そして意識もはっきりとしています。しかし、脳腫瘍とすい臓癌で余命いくばくもない伯母が心配で、母と私のどちらか一人は必ず家に居て、伯母の容体を見守っていました。月に一度近所の内科医の先生が伯母の容体を診るために通ってくれました。先生は「徐々に食欲が無くなって行くので、好きな物なら何でも食べさせてあげてくださいね」と教えてくれました。
伯母は寿司が好物だったので、私は毎晩6時に近所の寿司屋へと通い、鉄火巻とマグロの赤身の握りを注文しました。お土産にしてもらうことが出来たからです。けれど、寿司屋に毎日通い続けていたら、寿司屋の御主人やおかみさんも何か変だと思ったのか、「伯母さんはお元気ですか」と尋ねて来ました。それまで私は伯母の事を隠していましたが、御主人とおかみさんには正直に全て説明しました。御主人もおかみさんも大変心配してくださいました。伯母はその寿司屋に足繁く通っていたからです。何とか伯母が元気なうちに一度だけでもその寿司屋に伯母を連れてきてあげたいと私は思いました。
介護生活の終了
2010年は無事に年を越すことが出来ましたが、2011年の1月初頭に伯母は普段の自分のベッドでは生活が難しいほどに身体が衰弱して歩くこともままならなくなりました。
介護福祉士に相談し、介護用の電動ベッドや、簡易トイレを準備しました。また、少しでも補助になるようにとマンションの家の中じゅうには木製のパイプを取り付けてもらいました。 また、訪問看護師に週に3回、家に通っていただくようにもなりました。
日に日に伯母の体力は弱り、電動ベッドのすぐそばに備え付けた簡易トイレすら使用が出来なくなり、その後はほぼ寝たきりの生活が続きました。母も私も悲しくて仕方なかったですが、弱音を吐いている暇もありませんでした。そして、2011年3月20日の夕方、伯母はベッドの上で突然、吐血しました。そのまま伯母の意識は無くなりました。
すぐに内科医の先生に連絡しましたが、先生は伯母の容体を診て、死亡がはっきりと確認されました。病院に最初に伯母が入院してから約1年と二か月の母と私の介護生活は終わりました。
葬儀は家族葬で執り行いました。
今現在でも必死に最期まで伯母の介護に尽力出来て本当に良かったと思っています。