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金沢八景の八景の一つとして知られる能見堂の過去の誉れと現在の退廃

「景色」という言葉がある。「あたりの様子」のことだが、「あたり」に充当するのは、「鑑賞の対象としての自然界の眺め」「山水、風物などの趣」のことを指す。「春景色」であれば、春の時期に見える「あたりの様子」。「雪景色」であれば、雪が降った後、あたりが真っ白になった様。「夕景色」であれば、夕日に染まった海、日が沈む山、などを表現した言葉である。

金沢八景の八景の一つとして知られる能見堂の過去の誉れと現在の退廃

「景色」という言葉の持つ意味が拡充された

しかし昨今では、「景色」という言葉の新しい意味や用法が散見するようになってきた。例えば心理学者・大塚秀実の論文「コロナ禍における大学生の就職活動から見える景色」(2023年)であれば、コロナ禍以前と以後とでは大学生の就職活動の形態が大きく変わったことを「景色」という言葉でまとめている。WEB面接やセミナーが導入されたことにより、それまでの対面式で求められた面接スキルとは異なるリアクションが求められること。そして学生個々人の自宅などに、Wi-FiやWebカメラなどのオンライン環境が整っていることが必須になった。また、アルバイトや部活・サークル活動など、「大学生ならでは」の課外活動が大きく制限されていたことから、学生を採用する企業側が学生に、ひとりで取り組みやすい学業そのものについて、苦手科目の克服、逆に得意科目をいかに伸ばしたか。或いは資格習得などに、どう取り組んできたかを問うようになったこと。更に、コロナ禍という重苦しい日々の中、学生たちにストレスや、さまざまなメンタルヘルスの問題も増加したという。それゆえ、コロナ禍の今の「景色」の先の、未来のあるべき「展望」或いは「景色」として、大学のみならず、社会全体で、過酷な状況に置かれた学生を支援すること。そして大学生の就職活動そのもののあり方も検討し直す必要があると締めくくっている。

かつて絶景だった横浜市金沢区にある能見堂

かつて絶景だった横浜市金沢区にある能見堂

とはいえ、日本国内のみならず、世界各地には美しい「景色」、すなわち「景勝(けいしょう)」「名勝(めいしょう)」「絶景(ぜっけい)」と称され、今もなお多くの人々を惹きつける場所は、あまたに存在する。それと同時に、「今はすつかり荒廢して了つた。今ではもうわざわざ/\(注・わざわざ)其處に登つて行くものもあるまいと思ふ」ようなところもある。これは作家で紀行文でも知られる田山花袋(かたい、1872〜1930)が横浜市金沢区能見台森(のうけんだいもり)に所在した「能見堂(のうけんどう)」について、『花袋紀行集』(1922〜23年)で評した言葉である。

能見堂の起源

能見堂とは『新編鎌倉志』(1488年)に「八景総て能見堂より云なり」と言われた、金沢八景を一望できた寺のことだ。正式名称は「擲筆山(てきひつざん)地蔵院」。恵心僧都(えしんそうず。源信(げんしん)のこと。942〜1017)作と言われる地蔵菩薩を祀っていたという。寛文2〜9(1662〜1669)年頃に土地の領主・久世大和守広之(1609〜1679)が、江戸の芝・増上寺の子院・地蔵院を移して、当時廃れていた御堂を再興させた。京浜急行線の金沢文庫駅西口を出て、北側を500mほど進む。急勾配の坂道を有する住宅地を200mぐらい歩いたところにある立て札に従って、「六国(ろっこく)峠ハイキングコース」を登りきった、標高75mぐらいのところに、享和3(1803)年に立てられた、台座に「能見堂」そして「金澤八景根元地」と彫られた171cmほどの石碑が残っている。ちなみに「六国」とは、伊豆・相模・武蔵・安房(あわ)・上総(かずさ)・下総(しもおさ)の6カ国のことで、「六国峠」とは、それらを一望できることから名づけられたものだという。

金沢八景の八景の一つに指定された能見堂

そして「金沢八景」の「八景」、すなわち8つの風景とは、江戸初期の1676(延宝4)年、明(1368〜1644)から清(1644〜1696)に政治体制が変わった混乱の最中、杭州(現・浙江省杭州市)の西湖に所在する永福寺から日本に亡命してきた禅僧・東皐心越(とうこうしんえつ、1639〜1696)が、能見堂を訪れた際、眼下に広がる風景が、自身の生誕地でもあった杭州ととても似ていること。更に中国において伝統的に愛でられてきた8つの名勝地「瀟湘(しょうしょう)八景」が故国に戻らずとも、「ここ」で眺められると喜びをもって、「洲崎晴嵐」「瀬戸秋月」「小泉夜雨」「乙艫帰帆」「平潟落雁」「野島夕照」「内川暮雪」「称名晩鐘」と、能見堂から眺められる8風景を絶賛した「武州能見堂八景詩」を詠んだことによる。

当時の多くの人に親しまれていた能見堂

主に徒歩で移動するしか方法がなかった、当時の江戸市中の人々にとって、東海道の保土ヶ谷宿と浦賀宿を結ぶ浦賀道(六浦以北は金沢道)や鎌倉・江ノ島に通じる道筋に所在した能見堂は、小旅行を満喫できる格好の「場所」だった。それゆえ元禄年間(1688〜1704)から幕末に至るまで、多くの人々が美観を求めて能見堂を訪れた。そのピークは、庶民文化が大いに花開いた文化・文政期(1804〜30)で、周囲には茶屋や土産物屋が並び、大いに賑わっていたと伝えられている。しかし文明開花後の鉄道敷設、国道改修、海の埋め立て、さらには防衛拠点となり、造船所が設けられた横須賀の発展、近在の宅地開発などによって、地形そのものが大きく変わってしまった。しかも能見堂そのものも、明治2(1869)年に火災に遭ってしまい、それから再建されなかったため、「東海道五十三次」(1834年頃)などで知られる浮世絵師の歌川広重(1797〜1858)が描いた、天保5(1834)年当時の「金澤八景」を思い浮かべることは極めて難しい。

能見堂が如何に愛されていたか

そのようないわゆる「忘れられた」能見堂跡には、「擲筆院山室宗珉居士」と彫られた高さ73cm、幅65cm、厚さ19cmの自然石の墓碑が1基ある。裏には摩耗して読みづらくなっているが、以下の様に刻まれている。

「嗚呼能見堂予ひとたびの□□□美景を□□□□□□山海の景わけ□こころをとめここにすまほしけれども醫療のいとま□□□居を□□□堂し□□せめて没後に葬らればやとかねて墓を築むことを重宜に□ぬ□は風雅の□也とて□し□□て□□し□□旅人との□□宿□も□□□□□□二品の施□送りぬ享保十六年夏亥五月□重宜醫療の(大きな空白)風雅の心あさからす大和哥にこころをよせて一年(大きな空白)をみふるきあとをたつね折しくこの所に(大きな空白)自ら墓をかねて築しかは

送りきてここに葬りぬ明和八年辛卯正月廿五日世を去ぬとてよめる哥
月雪も花ももみじもむかしにて
けふそうきよの夢はさむらん」

この文章から類推すると、1731年、能見堂から見える風景を愛していた医師・山室宗珉は死後、堂の前にあった「擲筆松(すてふでまつ)」と呼ばれた松の大木の下に葬られることを望んでいた。その望み通り、1771年に亡くなった折、辞世の歌を刻んだ墓の下に葬られた、ということになる。しかも苗字が「山室」ではなく「鈴木」という説もあるが、「山室宗珉」という人物が「医者」だったこと以外、具体的なことはわかっていない。ただ、『江戸名所図会』(1836年)の「能見堂 擲筆松」に描かれた左側の松の根元に、山室のものらしい方形の墓碑が描き込まれていることから、先の文章が「創作」ではないことは明らかだ。

また、戒名に名づけられた「擲筆松」だが、江戸幕府による『寛明日記』(1624〜1657)正保2(1645)年2月19日の条に、「昔金岡大納言(巨勢金岡、こせのかなおか。平安時代前期。生没年不詳)という絵の名手がここで、金澤の風景を描こうとしたところ、あまりの美しさと潮の満ち引きの変転ゆえに描くことができず、筆を捨て、のけぞってしまった」という言い伝えが紹介されている。件の松はこのエピソードから命名されたものだろう。これらのことから、山室宗珉の能見堂への深い愛情が窺い知れる。

平賀源内も愛した能見堂

しかも能見堂に愛着を有した人物は、彼だけではなかった。「エレキテル」で知られる医者で本草学者の平賀源内(1728〜1780)が非業の死を遂げた一周忌を前にして、知己のあった蘭学医の杉田玄白(1733〜1817)が友人たちと共に、かねて金沢を隠居所にしたいと考えていたという源内のための記念碑を能見堂の境内に建立しようと企図していた。そのことを源内の妹・里与の婿養子・平賀権太夫に、「…(略)…鎌倉近所に金澤と申候所風色奇絶之地御座候、右之処へ御隠居可被成御望御座候、能見堂と申は中にも宜地に御座候故、何卒右之土地へ碑文にても相認め、不朽にいたし申し度心懸罷在候…(略)…」と手紙を書き送っていた。最終的に記念碑建立は叶わなかったものの、能見堂から一望できた夢のように美しかった風景に心惹かれた人物が少なくなかったことがわかる。

今は廃れた能見堂を滅びの美としても考えることができるが

オーストラリアのゲームデベロッパー、Prideful Slothは今年3月、ゲーマーが荒れ果てた観光地の町長となり、町を再建するシミュレーションゲーム‘Go-Go Town!’を発表した。ゲームの「景色」は「今どき」「最新」のシュミレーションゲームだが、「つくりよう」によっては、昔日の面影はない金沢八景、そして能見堂を、画期と輝きに満ちた江戸期のそれ同様に蘇らせることも可能だろう。地下で眠る山室宗珉は、V Rで蘇った「風景」を好むのか。それとも、あくまでも「現実」にこだわり、今現在のままでいいと思うのだろうか。朽ち果てた「現実」こそ「美」なのか。それとも、朽ち果てない永遠の「虚構」こそ「美」なのか。実際に彼に尋ねてみたいところである。

参考資料

■国書刊行会(編)『近世文芸叢書 第二 名所記 二 鎌倉物語』1910年 国書刊行会
■田山花袋『日本一周 前編』1914年 博文館
■田山花袋『花袋紀行集』第二輯 1922〜23年 博文館
■日本名勝研究会(編)『名勝研究 第五 (三浦半島)』1927年 日本名勝研究会
■読売新聞社横浜市局(編)『神奈川の歴史 上巻』1966年 有隣堂
■前田元重「武州金沢能見堂とその出版物について 上」 神奈川県立金沢文庫(編)『金沢文庫研究』1975年4月号(1-15頁)神奈川県立金沢文庫
■前田元重「武州金沢能見堂とその出版物について 下」 神奈川県立金沢文庫(編)『a href="https://amzn.to/45mVzUt" target="_blank">金沢文庫研究』1975年5月号(1-16頁)神奈川県立金沢文庫
■釜利谷開発地区文化財調査団歴史・民俗班(編)『横浜市釜利谷開発地区文化財研究調査報告書 歴史・民俗編』1976年 横浜市文化財研究会
■北島正元「久世広之」國史大辞典編集委員会(編)『國史大辞典』第4巻 1983/1984年(794頁)吉川弘文館
■関靖『かねさは物語 金沢八景の歴史と伝説』1984年 国書刊行会
■亀田孜「巨勢金岡」國史大辞典編集委員会(編)『國史大辞典』第5巻 1984/1985年(806-807頁)吉川弘文館
■萩坂昇『神奈川ふるさと風土図 横浜編』1985年 有峰書店新社
■高橋秀栄「心越興儔」國史大辞典編集委員会(編)『國史大辞典』第7巻 1986年(775-776頁)吉川弘文館
■有限会社平凡社地方資料センター(編)『日本歴史地名大系 第14巻 神奈川県の地名』1984/1997年 平凡社
■金沢区制五十周年記念事業実行委員会(編)『図説 かなざわの歴史』2001年 金沢区制五十周年記念事業実行委員会
■池上真由美『江戸庶民の信仰と行楽』2002年 同成社
■神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(編)『神奈川県の歴史散歩 上 川崎|横浜|北相模|三浦半島』2005年 山川出版社
■東京書籍編集部(編)『新版 日本語使いさばき辞典』2014年 東京書籍
■永井政之「東皐心越事蹟考」 駒澤大学仏教学部(編)『駒澤大学仏教学部研究紀要』第73号 2015年(1-27頁)駒澤大学
■山口晴幸「時代水雑考(その1)〜横浜市金沢地区を中心とした三浦半島周辺の探索調査〜」一般社団法人日本治産治水協会(編)『水利科学』第60巻 6号 2017年(68-89頁)一般社団法人日本治産治水協会
■山口晴幸「時代水雑考(その2)〜横浜市金沢地区を中心とした三浦半島周辺の探索調査〜」一般社団法人日本治産治水協会(編)『水利科学』第61巻 1号 2017年(123-140頁)一般社団法人日本治産治水協会
■梶山孝夫『金沢八景と金沢文庫』2019年 錦正社
■港区総務部総務課(編)『〔港区史〕図説 港区の歴史』2020年 港区
■「能見堂跡|徳川家康も愛した金沢八景根源地として知られる梅の名所」『三浦半島日和 横須賀・三浦・葉山・逗子・鎌倉を深く知るためのガイドブック』2022年2月5日
■大塚秀実「コロナ禍における大学生の就職活動から見える景色」高橋信平(編)『帝京大学学生カウンセリング研究』第11号 2023年(7-12頁)帝京大学学生カウンセリングルーム
■「祗園寺を開山した中国からの渡来僧、東皐心越」『エルアイWEB』2023年3月10日 
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■「能見堂跡」『横浜市歴史博物館』
■「能見堂跡」『横浜金沢観光協会』 
■『Go-Go Town!

ライター

鳥飼かおる(掲載日:2023/10/04)

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