日本人にはあまり馴染みがないが西欧の知識人たちは神の存在証明に挑んできた。宇宙の始まり、宇宙の第一原因を追究する「宇宙論的論証」、生態系などの世界の構造になんらかの大いなる意志を見出そうとする「目的論的論証」など。それらと比べてもかなりユニークな論証が「存在論的証明」である。この論証は「神」という言葉そのものの分析から神の実在を導こうとする。
アンセルムスとスコラ哲学
存在論的論証は宇宙論や進化論などの具体的な事象や、霊魂・霊能といったオカルト的な現象とも異なる。「神」という概念の分析、言葉の意味の解明から神の存在を論証しようというもので、アリストテレスの論理学を駆使したもの。特に神学者カンタベリーのアンセルムス(1033~1109)の論証は、現代の哲学者たちの間で現代に至るまで議論が交わされている。
この論証は、ある命題が成り立たないことを証明する「背理法」を用いる。アンセルムスは「神は実在しない」という命題が成り立たないことを証明することで神の存在を論証しようとした。
存在論的論証
まず大前提として【神とは、それ以上大きなものが考えられないもの】(Ω)と定義する。全能の神というからには、この世の何よりも大きくなくてはいけない。神より大きなものが存在すれば、それは神とは言えない。
神などというものは想像はできるが、想像上の存在で現実に存在するとは思えない。特に現代ではそう思う人が多いだろう。しかし「神」という言葉を聞けば、私たちは私たちなりの「神」を理解する。その時にその人の頭の中、想像の中には「神」は存在するといえる。ペガサスやユニコーンが存在するとの同じ意味である。実在はしないが、想像の中でペガサスもユニコーンも存在する。神も【神は頭の中では存在するが、実在はしない】(A)になる。この仮定(A)を成り立たないことを証明する。
アンセルムスはここでただの【想像上の産物より、現実に存在するものの方が大きい】(B)とした。例えばペガサスと馬を想像しろと言われればできる。では実際に連れてこいと言われれば馬は可能だがペガサスはできない。つまり「想像」+「現実」の存在の馬は「想像」だけの存在のペガサスより大きい。つまりこうなる。
神(Ω)が(A)だとしたら(B)と矛盾する。つまり神は実在する。
神が想像上の存在だとしたらペガサスと同じ。つまり現実にも存在する馬より小さいことになる。しかし神とは【それ以上大きなものが考えられないもの】だった。これは矛盾。つまり神は想像だけではなく実在する。
言葉と論理
「証明終わり」と言われれば、なんだそれはという声が聞こえてきそうだ。そもそも想像より想像+現実の方が大きいとか、アンセルムスが勝手に言っているだけである。これはただの言葉遊びではないのか。論理的に神の存在証明に挑んでいる哲学者A・プランティンガも、この論証によって信仰を持つようになった人はほとんどいないと断言している。アンセルムスあたりから始まり、トマス・アクィナスで大成された中世スコラ哲学は、煩瑣な言葉遊びだとして実に評判の悪い哲学だ。あえて外している哲学史の本もある。
しかし、言葉、記号を駆使して抽象的思考を行うところに人間の特殊性がある。言葉遊びの究極が「紙と鉛筆」で完結できる純粋数学・論理学・理論物理学といえる。アインシュタインは「私に天体望遠鏡はいらない、これがあればいい」と胸ポケットのボールペンを指したという。実際に彼らが紙とペンで記号を駆使した「言葉遊び」通りに宇宙は運行している。そして抽象的存在の究極が「神」である。
禅は言葉や理屈を超越した「不立文字」を唱えるが、道元の主著「正法眼蔵」は膨大な量からなる哲学書であるし、空海も法然、親鸞も多大な著作を著した。日本は全能の神の概念は馴染まないが、言葉や論理を超える世界へのアプローチは行なわれてきた。そのためにはまず言葉・論理を究めることが必要だったのだろう。
真言、マントラなど古今東西の宗教は「神の名を唱えよ」と説く。それは「神」という言葉そのものに謎が隠されているという意味とも取れる。「神」の概念を持つこと自体がその存在をすでに証明しているのかもしれないのである。
尽きることのない探究
アンセルムスの神の存在証明を簡単に概観した。詳しくは参考文献を参照されたい。一見して言葉遊びにしか思えないこの論証に多くの哲学者、神学者、論理学者が議論してきた。そこまで理を尽くして神の存在を証明しようとするのはなぜなのか。もし神がいるなら、私たちも死後の次のステージがあるかもしれないし、辛い理不尽な人生にも実は深い意味があるのかもしれないのである。だから理知を尽くして神にアプローチする。理性、知性は人間だけに備わっている。そしてそのために人は苦しみ、神に救いを求める。神へのアプローチは科学時代の現代にあっても尽きることはない。
参考資料
■上枝美典「『神』という謎−宗教哲学入門−」世界思想社(2000)
■A・プランティンガ著/星川啓慈訳「神と自由と悪と」勁草書房(1995)