仏教を篤く信仰していたとされる聖武天皇。また、その后である光明皇后も仏教への信仰心が深く、慈悲に満ちた心から、民衆を救う事業を行った。そして、光明皇后は伝説を残していった。光明皇后の慈愛に溢れる事業が行われてきた施設を紹介していく。
光明皇后とは
藤原不比等と縣犬養橘三千代の間の娘として、光明子は生を受ける。光明子は16歳のときに後の聖武天皇である首皇子(おびとのおうじ)の后となる。光明皇后は即位すると、執政や社会事業を行うための拠点として、皇后宮職を設置した。光明皇后は国からの制約を受けないために民衆を救済するための施設や組織を宮外に作り、光明皇后の私財を投じたとされる。
悲田院
悲田院は貧しい人や孤児を宿泊させたり、扶翼したりするために設置された。「悲田」という言葉は慈悲の心で困窮者に施せば、福徳を生み出す田となるという意味が仏教思想において込められている。光明皇后が設置する以前に、聖徳太子が四天王寺に建てたのが最初であるという伝承があるが、記録として残っているものでは光明皇后のものが最古である。
施薬院
施薬院は貧しい病人や孤児の救済や療治、施薬を行うために設置された。諸国から集められた薬草を無料で施薬したとされる。東大寺にある正倉院に保管されていた人参や桂心も提供された。また、光明皇后自身が現場に立って、治療に当たったという伝説も残っている。
法華寺浴室
薬草を用いた蒸し風呂による治療をするために設置された。法華寺浴室は使用できる機会が限られてはいるが、現在も利用できる施設である。またこの浴室には伝説がある。光明皇后が千人の垢を流そうと発願し、光明皇后は自ら999人の垢を流していった。そして、最後の人となったとき、その千人目はライ病(ハンセン病)患者の老人であった。老人は「体の膿を口ですべて吸い取ってほしい」と懇願した。光明皇后はその願いを聞き入れ、膿をすべて口で吸い取り出した。すると、患者の老人は光輝きだす。老人は実は阿閦如来であった。
仏教文化を開花させた光明皇后
仏教思想のもとに、奈良時代の頃から福祉事業を行ってきた光明皇后はまさに「福祉事業の創始者」と呼べる。全国に国分寺と国分尼寺を建立するよう聖武天皇に勧めたのも光明皇后である。興福寺の阿修羅像を始めとする仏像も光明皇后の命によって作られたとされる。光明皇后の活躍により、聖武天皇朝は奈良時代で仏教最盛期を迎えることとなる。光明皇后は福祉事業だけでなく、文化に大きく寄与した。