2020年11月に日本財団が行った、17〜19歳の男女を対象とした「デジタル化について」の意識調査によると、若者たちがデジタル化を進めて欲しいものとして、「オンライン授業」が35.9%と第1位になったという。この結果から、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、学校や塾などでのクラスター発生などで、大人数でひとつの空間に集う「学校教育」というシステムそのものが問い直され、かつ、そこに今現在通わなくてはならない若者たちにとっては、「授業のデジタル化推進」は、自身の「安全」を揺るがす、切迫した問題であったことが伺い知れる。
オンラインとオフライン、それぞれの良し悪し
今後、ワクチン接種などによって、感染そのものが収束したとしても、「学校」に生徒・学生が通う必要があるのか。旧来からの対面式授業のメリットとしては、自分の部屋では集中力が途切れてしまう。友達と交流したい。運動会や遠足など、いろいろな行事に参加したい。そしてオンラインでは味わえない、ナマの授業での一体感…しかし、オンラインにはオンラインならではのメリットもある。体調不良やけが、病気などで起き上がれない時には、ベッドからでも参加できる。そして不登校の生徒にとっては、学校に行こうとすることでストレスが増し、ますます学校に行けなくなってしまう懸念があるが、クラスメートや先生などと会わなくてすむ、オンラインでの「勉強」にまず、取り組んでみる。そこから少しずつ、学校へ行けるようになることを目指すことが可能になる。あるいは、日本国内、例えば沖縄と北海道のような遠距離の場所はもちろんのこと、海外の学校と繋がり、対話や交流することもできる。そうなれば、「現場」に行かなくても、語学教育や国際交流も可能となる。
学校というシステムの前身が寺子屋である
そもそも、日本では「学校に通う」ことが「当たり前」になっているが、「学校」というシステムが導入される前は、どのような状況だったのか。
江戸時代に、下級武士や町人の子弟が通い、明治維新頃まで存続していた「寺子屋」がある。大体、元禄期(1688〜1704)前後に、江戸市中に定着したとされている。
今日のように、「教育基本法」などの法律で縛られたものではなかったとはいえ、寺子屋では1年の行事が明確に定められていたという。入学は2月の初午(はつうま)の日で、7、8歳になった子どもは、親に連れられて「寺入(てらいり)」をする。その際、平仮名・片仮名・漢字などを学ぶ習字のお手本は、必ず寺子屋の師匠の直筆でなければならず、その筆法の巧みさ加減が父母の評判を左右した。それゆえ師匠たちは、2月の寺入前後になると、子どもたちの「確保」のため、自身の「手」の研鑽に必死だったと伝えられている。そして寺子屋の入門料は、文化年間(1804〜1814)前後で200文(現・2500円)ぐらいだった。通っている子どもの数は、男子が30〜70人。そして女子は全体の70〜80%だった。しかし地域によっては、200人、300人などの「大規模校」も存在した。しかも、「寺子屋」といっても、「学びの場」は、必ずしもお寺ではなかった。江戸時代の初期は、大きな寺の住職が近在の子どもたちを教えていたのだが、江戸などの大都市になると、「師匠」「先生」だったのは、時代劇に見られる浪人や僧侶はほんのわずかで、一般の町民男女が教えていたのがおよそ48%、そして旧幕臣・旧藩士・士族などが18%だった。ことに商業がさかんだった日本橋に至っては、女性が全体の31%を占めており、その影響から、女子の就学率が男子を上回ってもいたという。
更に寺子屋は、現在の小・中学校、高等学校とは異なる形で、極めて「地域密着型」でもあった。例えば4月8日の灌仏会(かんぶつえ)の折には、近在のお寺からいただいた甘茶で墨をすって、習字の上達を祈ったり、天神様に使い古した筆を奉納したりした。そればかりでなく、寺子屋の師匠は、ただ「読み・書き・そろばん」を教えればいいというわけではなく、地域の人々の信用を保つため、高潔な人格を保つことのみならず、日々たゆまぬ努力をなさねばならなかった。
東京都調布市の布田天神社にある「多摩川の碑」
『延喜式神名帳』(927年)に記されている古社で、東京都調布市調布ケ丘にある、布田(ふだ)天神社の拝殿脇に、「多摩川の碑」と呼ばれる石碑がある。幕末の弘化3(1846)年、小林信継によって建てられたものだ。小林家は寛政年間(1789〜1801)から明治元(1868)年まで、代々寺子屋・松寿軒を開き、現在の調布市東部〜狛江市に住む子どもたちに漢詩・そろばん・書道・短歌などを教えていた。殊に信継は和歌に堪能で、江戸に出て、有名文人や歌人と交流を深めた人物でもあったという。
そうした信継の行ったことは、まさに今日の言葉で言う、「地域貢献」の一例だ。碑文の冒頭には、『万葉集』の巻4・東歌において
多摩川にさらす手作りさらさらに
何ぞこの児のここだ愛(かな)しき
と、当時の税制「租・庸・調」の「調」、すなわち朝廷への献上品であった布が多摩川でさらされ、風になびいている様子が描き出されていることについて、「此の布田の里にぞありける」と記し、この石碑を建てたことは、「かの布晒せし里の跡 いく万代も動きなく 人のまどわぬあかしとなりけり」、としつつも、かつて多摩川の北岸に、医薬・温泉・酒の守護神で知られる「少彦名命(すくなひこなのみこと)」と学問の神様・菅原道真(845〜903)が祀られていたものの、文明9(1477)年に河川の氾濫によって社殿が流出してしまったことから、現在の位置に移動し、今に至っている。自分としては、多摩川の近くに住みながらも、多くの人々がかつての古社とそこに祀られていた神様のことを忘れ去ってしまっていることを口惜しく思うと、昔を思い浮かべながら、
苔の露 いわねのしずく落つもり
ながれてきよき多摩河のみづ
と、はるか上流の、山奥の苔の上や大きな岩から落ちたほんのわずかなしずくが積もり集まり、大いなる清らかな流れとなっている、と多摩川を詠み、碑文をしめくくっている。
最後に…
もしも「オンライン授業システム」が学校の授業の全てになってしまったとしたら、教える側にとっては、信継のような形での「貢献」は難しいかもしれない。しかし、オンライン上のヴァーチャル空間に、今日、布田天神社に残る石碑のような、地域の歴史を記したものや、その人物そのものを顕彰するものが学生・生徒の側からも、また、教える側からも、無数に建てられる可能性は大いにある。
皮肉にもコロナウィルスによって、我々は今、時代の大きな転換点に立たされている。しかもこの動きは、誰にも止めることはできない。しかし、それにまだまだついて行けない多くの人々によって、「ヴァーチャル」ではやはり物足りないからと、布多天神社の石碑のような実体を伴う「もの」が残され続ける可能性もある。人や時代、そして表現媒体・装置が変わっても、今を生きる多くの人々が地域の埋もれた歴史の詳細を、決して忘れ去ってはならないと、信継のように危機感を抱く人は多く存在するはずだ。それゆえ我々はいつ、どんな時であっても、そうした先人たちの思いを真摯に受け止め、今いる自分の「場所」の過去を時に振り返り、自分の生きるヒントや糧として、日々を過ごしていきたいものである。
参考資料
■並木仙太郎(編)『武蔵野』1913年 民友社
■内務大臣官房地理課(編)『多摩の御陵を繞る史蹟』1927年 白鳳社出版部
■調布市百年史編さん委員会(編)『調布市百年史』1968年 調布市役所
■小池正胤「寺子屋師匠」(610頁)/「寺子屋」(691−692頁)小木新造・陣内秀信・竹内誠・芳賀徹・前田愛・宮田登・吉原健一郎(編)『江戸東京学事典』1987年 三省堂
■調布市市史編集委員会(編)『調布市史 <民俗編>』1988年 調布市
■川口謙二(編)『日本神祇由来事典』1993年 柏書房
■東京調布ロータリークラブ創立40周年記念誌部会(編)『ふるさと調布の歴史 「調布は昔、海だった」』2003年 永川敏一
■「若者が望むのは『オンライン授業』、デジタル化は学校教育に期待」『ascii.jp』2021年2月2日
■『調布の里の鎮守様 延喜式内 布田天神社』
■「寺子短歌」『国会図書館 国際子ども図書館』