もしも自分に残された時間が少ないと分かったら、人はどのようにその瞬間へ向かうのだろう。そこには、どのような心の変化が生まれるのだろう。アメリカの精神科医であったキューブラー・ロス(1926-2004)の著書「死ぬ瞬間」を参考として死への過程の第3段階「取り引き」について考察しようと思う。
死への5段階への過程の中でも「取り引き」の時間は短い
取り引きは、時間としては短く、顕著ではない。しかしながら、確実に最期が近い人の心の助けになる期間であるという。起こり得る物事を避けたり、先延ばしにしたりする神への祈りのような気持ちを持ちながら過ごし、別の作戦を練っている時間だ。
日常生活における具体的な「取り引き」とは
特定の信仰を持たない日本人からすれば、神へ祈るということはあまり馴染みのない感覚かもしれない。次のような例で考えてみよう。学生時代の最後や独身生活の最後に、「もう一度これがしたい」と考えたことはないだろうか。それは、友達と朝までカラオケで歌い尽くすというような計画を実行することである。何かの終わりが迫っている時、あなたは最後にやり残した願いを叶えるために考えを尽くし、それを実現させようとする。そして、その祈りが叶うことと引き換えに、学生時代や独身生活を彩る最後の経験を豊かに見届ける。
死が迫っている場合では、最期に何かやり残したことをやりたいと計画を立て、それまで命が続くよう祈ることを意味する。
「それさえ叶えばあとはいらない」という死の直前における「取り引き」の矛盾
さて、ここで生じている矛盾にお気づきだろうか。どうか病気が治るようにと祈りながら、「最後にもう一度これがしたい」と取り引きをすること。それは、死が迫っていると知りながら、叶ってしまったらそれ以上は望まないという暗黙の了解であることを意味している。言葉には、その人の無意識が表れるようだ。最後に自分で言っていることの意味を考えると、それがいかなる想いか想像ができる。
「取り引き」によって救われる
キューブラー・ロスによると、その暗黙の了解が守られることは一度もなかったそうだ。要するに、「最後にもう一度これがしたい」と祈りながら、最期を受け入れることに直結することはないと言う。ではなぜ、取り引きが本人の助けになるのだろう。
キューブラー・ロスは、それを本人が持つ何らかの罪悪感のようなものが関連していると論じている。罪悪感とは、常に神様がいる特定の信仰を持ちながらも定期的にあるいは熱心に教会などに通わず祈ってこなかったことなど、自分の欠点のようなものに由来する。欠点から生じた罪悪感を軽減するため、取り引きをするのだそうだ。取り引きの相手が神や医者である場合、最後の祈りが叶うのなら神に全てを捧げ科学に私を捧げる、そのような構図ができる。その願いが叶ったのち、最期を受け入れるか否かに関わらず、罪悪感については軽減することが可能になるという意味で、助けになる期間であると考えることができる。
「取り引き」状態の本人との関わり方
この期間は、否認や怒りと変わり、本人の心の中での変化が大きいことや周囲の人が祈りに対しての返答には責任を取ることができないことがほとんどである。そのため、祈りの結果に対しての対応としては、“聞き流す“で良いのだそうだ。知り得ない結果について周囲の人が神や科学の代わりに断言的な返答をすることは、周囲の人にとって精神的な負担となってしまう。ここで推奨される対応を知るには、次の点に着目をするといい。それは、取り引きの期間(祈りが叶うまでの期限)、本人は何でもするという条件を設定しているということである。何でもするという期限を過ぎても約束を守らないのであれば、本人の罪悪感が増してしまう。そのためには、取り引きを実現するためにのみ話し合いをすることが必要となる。本人の希望が叶うよう、一緒に計画を練るのだ。
寄り添う
取り引きとは、短い期間で決して顕著ではないと述べた通り、2020年に改訂された死ぬ瞬間においては、僅か6ページの構成で成り立っていた章である。これほど短く目立たないとは言え、後悔を残して死ぬ瞬間を迎えてしまうことは、周囲の人にとっても後悔になるのではないかと思えてならない。
「雨を避けられないなら、共に打たれよう。」
筆者(精神科ソーシャルワーカー)が立つ福祉の視点から、科学に基づいた意見ではないことを踏まえた上で、取り引きが実現するよう一緒に祈るのはどうだろうかと考えると、こんな言葉が思い出された。