秋の果物の代表格である柿。緑かかったオレンジから徐々に朱色に変わる柿を見て紅葉の風景を重ねて秋の深まりを感じる。柿は日本でも最も古くから食されている果物で、懐石料理の第一人者・辻嘉一氏が、「国果(日本を代表する果物)を決めるとすればそれは柿」と記したことで、日本を代表する果物と言われている。一部の海外でも「カキ」という名前で親しまれているとか。
「柿が赤くなると、医者が青くなる」ということわざがあるように、柿はスーパーフードとして多くの栄養を保有している。お酒が好きな人なら二日酔いに、何と便秘にも効くようだ。また、干し柿として加工すると長期保存ができるため、飢饉や戦の際に非常食として大変重宝したそうだ。
木守柿
柿の収穫の際に、実っている柿を全部採らずに1つだけ残す風習がある事を最近知った。それは、1つ残す事で翌年もまた沢山実りますようにというおまじないと同時に生きし全ての動物に分け与えるという意味があるようだ。
庭にあった柿の木はカラスか、私かどっちが一番採りごろに頂けるか競ったものだが、冬になると食べ物が枯渇する野山で、1つでも柿が残っている事で助かるモノもいるということ。敢えて残し、他の生き物に与えるという概念に仏教の布施の教えを重ねた。
布施とは
よく一般的に使われる「布施」とは、葬儀や法事でお寺さんに渡すものを指すかと思うが、仏教では修行法の一つとして意味をなす。
物でもお金でも、それを必要としている人に卑しい心ではなく、温かな心で差し出す事を施す事が修行とされている。今回は、お布施という形式を記すのではなく、布施という言葉の成り立ちを上記の「木守柿」から考えてみた。
「施しは無上の善根なり」
布施は施しを受けた人ではなく、施しをした人が報われると説いている。見返りを求めるのではく、相手に尽くそうとするその気持ちが布施だと。人には、3つの毒があると云われている。それが「貪り」「怒り」「愚痴」である。布施はその中の「貪り」を捨てる行為である。物を独り占めせず、喜んで捨てる気持ちで手放す事。
「布施」の語源、成り立ち
布施は「布を施す」と書くが、言葉の成り立ちとして、お坊さんの袈裟、衣類はボロ布を継ぎ合わせたものだそうだ。
あるお坊さんが説法をしながら家々を渡り歩いていた。そこで、貧しい家で説法を説いたが、その家にもお坊さんに与える物が何もなかった。
「ここにあるのは、おしめで使った布くらいです。」
それをお坊さんは喜んで頂いた。
糞掃衣とも言われるように、ボロ布として最後、おしめや糞を拭うしかない布をパッチワークして作ったのが、肩からかけている袈裟の始まりとも言われている。そこから布施という言葉になったそうだ。
柿と喜捨
人間は執着という概念がある。柿をカラスが突く様子を見て、「あぁ、勿体無い事をした」と思っていたが、カラスがつついた後、その後は柿が綺麗になくなっている。聞くところによると、その後はムクドリなど小さな鳥が食べるのだとか。きっと小さな破片も最後は余すことなく誰かしらが美味しく食べているのだろう。
自然というのは、それぞれ全ての生物が喜捨をする事で分け隔てなく食料が行き渡るようになっているのかもしれない。布施という言葉を聞くとついついお金を連想し、お寺さんに払うものとばかり思っていたが、仏教的観念からすると一種の修行なのだ。
布施とは物だけではない。隣の人に温かな気持ちで見返りを求めず親切な事をするのも布施の一つ。一歩、お金とは切り離して、布施という本来の意味での「喜捨する」という事を意識して生活してみても良いのかもしれない。