葬儀が執り行われる斎場には様々な思いが交錯する。嘆き、哀しみ、喪失感、闘病からの解放や大往生など、場合によっては安堵感や達成感すら見いだされることもある。「赦し」もそのひとつだ。見落とされがちな、死者と残された生者における「赦し」とは。
死を境に一旦精算される
「許し」と「赦し」では意味が異なる。「許し」は行為や行動に対してそれを許可するという意味で、「赦し」は、すでに起こってしまった出来事や過ちを受け入れることを指す。
昔から「死ねば皆 仏」、「水に流す」などと言い、死者に鞭打つ言動は軽蔑の対象にもなる。生前の罪も死んでしまえばノーサイドというわけだ。恨みや憤りなどにいつまでも執着することのひとつの区切りにもなるだろう。
靖国神社には戦争責任を問われて死刑となった「いわゆるA級戦犯」と呼ばれる人達も合祀されている。これについては多方面から批判もされているが、「死ねば神様」「死んでまで責めることはない」という考えの現れではないだろうか。
死者への「赦し」
カトリックには末期の病者に施す「病者の秘蹟」(塗油)という儀式がある。カトリックの信者は死を前にしてその後の神の審判を恐れ、自分がこれまでに犯した罪に恐れおののく。罪を神に告白し赦しを得る「ゆるしの秘蹟」というものもあるが、「病者の秘蹟」はこれを受けることと同様であるとされる。神父は病者に聖なる油を塗り、「あなたは赦された」とする。こうして病者は死を恐れることなく、安らかに天国に逝けるのである。かつては「終油の秘蹟」とも呼ばれていた。
また、日本の刑務所には受刑者に宗教的教育を説く「教誨師」(きょうかいし)が存在する。彼らは死刑囚の死刑執行の際に立ち会うこともある。死刑囚に神や仏の道を授け、罪を「赦す」ことで死の恐怖を鎮める。浄土真宗本願寺派の僧侶 花山信勝(1898~1995)は、東條英機(1884~1948)ら、「いわゆるA級戦犯」7人の執行に立ち会った。
いずれも「神仏の代理人」としての宗教者が生前の罪を「赦す」ことで、安らかな死を与えるのである。
赦されざる死者たちもいる
一方、このような「赦し」とは対照的な感情が込められているモニュメントが中国にある。浙江省の「杭州岳王廟」と、四川省の「成都武侯伺」などがそれだ。
杭州岳王廟は南宋(1127~1279)の将軍 岳飛(1103~1142)を祀った廟。岳飛は南宋を脅かす北方民族王朝「金」をめぐり対立する和議派と抗戦派のうち抗戦派の筆頭だったが、和議派の秦檜(1091~1155)に謀殺された。後年、秦檜は、憂国の臣・岳飛を陥れた売国奴とされ酷評を浴びることになる。
廟には岳飛と養子の墓の近くに、秦檜とその妻が縄でつながれて正座させられている銅像が作られており、この像に唾を吐きかける習慣が最近まであった。現在は「像に唾を吐いたり、叩いたりしてはならない」という掲示がされるようになっている。
四川省にある「成都武侯伺」は、諸葛孔明(181~234)、劉備玄徳(161~223)ら三國志の英雄を祀る廟である。しかし劉備の長子で2代蜀(蜀漢)皇帝 劉禅(207~271)の像は置かれていない。蜀は劉禅が大国・魏に降伏したことで、わずか二代で滅んだ。三國志は蜀の人気が高く、国を滅ぼした"暗愚の帝王" 劉禅の像は造られるたびに壊されることが続き、ついに劉禅像は廟から消えることになった。
彼らは死してなお赦させることなく、辱しめられ、貶められている。このことを持って日本人が中国人より寛大などと言うつもりはない。文化の違いに過ぎないが、神として合祀された、「いわゆるA級戦犯」とは実に対照的である。「死」は「赦し」の行方が試される機会でもあるだろう。
難しい「赦し」
実際、罪を犯した者を「赦す」ことは難しい。例えば大切な人を奪われ、怒りを生涯持ち続けた人がいて、誰が責められよう。2001年大阪で小学生無差別殺傷事件を起こした元死刑囚は、執行を前にしても、罪を悔やむことなく、最後まで遺族に謝罪することはなかったという。このような者を遺族に赦せというのは酷というものだ。
一方で「どうしようもない親父だった」などと言いながら、生前苦労をかけられたことを「赦す」人もいる。筆者の知人は葬儀の際、「今となっては良いことしか思い出さない」と語っていた。彼は父親を「赦した」。そして彼の心もいくばくかは浄化されたのかもしれない。葬儀とはそういう場でもある。
赦すかどうかの主体は生者だけではない
これまでは生者が死者を赦すことだった。一方で死者から生者への赦しということもある。筆者は生前、義理を欠いた人の葬儀に参列した際、遺族から「きっとゆるしてくれてるよ」と言われたことがある。
これは都合の良い考えかもしれない。彼岸にいるその人は、赦してはいないのかもしれない。しかし、その次元に生ある我々が及ばない以上、そう感じたなら、そう信じる他ない。残された者にとっても葬儀は罪を浄化する場となる。
赦し合う場として存在する葬儀
「死」は少なくともこの世においては、全ての終わりである。全ての終わりということは罪も憎しみも終わりということだ。
もちろん事件被害者の遺族の方々などはこの限りではないだろう。しかし怒り・憎しみの対象が彼岸に去ったことで、何かが終わったことは事実だ(オウム事件の被害者関係者の方もそのような旨を述べられていた)。
死者も生者も「死」を持ってお互いに赦し合うことができる。葬儀・葬送とはそのような場でもある。