日本は政教分離の原則が守られ、公的な場におる無宗教性は徹底されている。しかし、それが慰霊の場にも適用されると様々な矛盾を孕むことになる。無宗教的な慰霊とは何なのだろうか。最近下火ではあるが、戦没者の慰霊施設としての国立追悼施設の建設をめぐって議論が交わされていた。政教分離の原則から、この施設は「無宗教」であることが条件である。宗教とは人知を超えた存在、つまり神仏や霊、また現世とは異なる他界異界の存在を認める世界観である。慰霊という行為は当然、死者の霊を慰める宗教的行為だ。しかし、霊がいないなら慰霊する必要があるのだろうか。無宗教の慰霊とは誰に何に向かい合っているのだろうか。
無宗教であることと慰霊の矛盾をどう考えるか
宗教学者・歴史学者で、國學院大学名誉教授の井上順孝は次のように述べている。
「特定の宗派・宗教にこだわらないこということと、もしくは宗教的でない、無宗教であるということとは別である~略~追悼という行為は、宗教性にかかわりのある文化的営みであり、そこから宗教性を排除するのは困難と考えられる。なぜなら、死者のたましい、霊魂、そうした観念を排除した場合の追悼儀礼は、一体何にたいしての追悼かという根源的な疑問が生じるからである」(国際宗教研究所編 井上順孝・島薗進監修「新しい追悼施設は必要か」(2004) 3ぺりかん社 18ページ)
こういった見解に対しては「慰霊は生きている者のためのもの」という向きがあるが、そこまでして霊や魂の存在を否定する理由はなんなのだろうか。素直にあの世にいるあの人と話をしているではダメなのか。
それはそれでよいが、特定の宗教と関連づける必要はないとの向きもあろう。筆者にすれば、それはそれでよいということが宗教的感性を受け入れるということだ。特定の宗教・宗派にこだわる必要は確かにない。朝露に生命を感じるとき、満天の星空を仰ぎみるとき、何がいる。見えないけどいる。それが宗教的感性である。
「無宗教」慰霊施設の具体例
戦没者追悼の施設といえばほとんどの人が靖国神社を連想するだろう。しかし公式には靖国神社は一宗教法人であり、○○宗、○○教と同義ということになっている。そこで国が建設したのが無宗教慰霊施設 千鳥ヶ淵戦没者墓苑である。ここには日中戦争、太平洋戦争の戦没者で身元不明者や、引き取り手のない遺骨が安置されており、終戦記念日には内閣総理大臣が参拝する。無宗教なので政教分離には抵触せず、事実上の国立追悼施設化している。しかし、靖国神社に比べ知名度は格段に低く訪れる人も少ない。
弥生慰霊堂は警視庁、東京消防庁殉職者の慰霊施設である。戦前は警視庁の管理下にあったが、戦後の「神道指令」により、警視庁が神社を管理できなくなったため、有志が奉賛会を結成した。この時点では慰霊行事は神道式でやっていたが、1983年、従来の神式の慰霊祭からいわゆる"無宗教”形式の慰霊祭に変更し、現在に至っている。
施設は拝殿と本殿からなり、狛犬や燈籠もある神社そのものであるが、鳥居はなく本殿には千木・堅魚木もない また、廟の由来を書いたものも、慰霊碑もない。昭和天皇に関する碑があるのみである。日本の安全を守る為に亡くなられた方が約2500柱鎮まっているとされているが、無宗教といいつつ「柱」という神式の数え方を使用している。そしてこうした旨も一切伺い知ることはできない。
こうした無宗教慰霊施設は特定の日を除くと静かで人気がない。弥生慰霊堂など存在すら知らない人がほとんどだろう。一方で、靖国神社は賛否が問われ続けている騒がしい場所にも関わらず参拝客が絶えない。参拝客が皆「右傾化」した人とも思えない。靖国をめぐる賛否両論は政治的イデオロギーの次元であり、「霊」の存在とは一線を画するものだ。これからもこの傾向は変わらないと思われる。
この違いはそこに宗教的存在である死者の「霊」がいるかどうかではないか。「無宗教」を標榜する施設に「霊」は存在しない。「霊」がいるからこそ霊に会いに行くのだ。これは守護霊や自縛霊などと呼ばれるオカルト的なものでない、宗教的感性が捉える根源的なものである。
日本人の宗教性
日本では「宗教」という言葉にネガティブな印象を持つことが多いように思う。自分には理解できない奇異な思想・行為に対して、「宗教みたい」「怪しい宗教」だと形容したことがない人は少ないだろう。「うちは無宗教ですから」と誇らしげに語る人もいる。
実際、日本人の宗教に対する姿勢はよく話題にされる。日本人はお宮参り、七五三を神社で、結婚式を教会で、葬式を寺で行う。正月ともなれば全国の寺社に初詣客で賑わい、キリスト教起源(諸説あり)のクリスマス、バレンタインデー、果てはハロウィーンに興じる。これほど宗教に対する無節操さは世界的に見ても異質といえる。特にキリスト、イスラムなどの一神教信者には信じられない光景ではないか。日本人は無宗教であると言われれば納得できるものだ。
一方で、例えば葬儀や供養の仕方について、自然葬、直葬、送骨など多様を極めている。それは、そこまでしても供養、葬儀をしたいということでもある。初詣も有名な寺社なら、1分にも満たない礼拝のために寒空の下で何時間も待つことは珍しくない。このような視点から見ると、日本人は特定の宗教・宗派にはこだわらず、宗教に対して寛容であり、形式より根源的な本質を掴んでいるとは言えないか。
宗教哲学者 ジョン・ヒック(1922~2012)は、宗教とは究極的な真理が民族や文化によって異なった応答をすることで多様に展開されているとする宗教多元論を唱えた。ヒックはこの考え方を「神は多くの顔をもつ」と表現したが、この言葉はそのまま日本人の宗教的態度にも当てはまる。日本人は特定の宗教・宗派の信者からは「無宗教」であるといえるが、宗教的感性は十分備えていると筆者は思う。
慰霊とは宗教的行為である
無宗教施設には非科学的な「霊」はいない。そこに足を運ぶ人はまれである。日本人の宗教性は無宗教の慰霊という矛盾した形式にひかれることはないことを示している。
それでも無宗教施設に足を運び、手を合わせる人ももちろんいる。彼らは何に手を合わせているのか。その時、その人の祈りによって、その場所は「無宗教」ではなくなっているはずだ。
社会的変化による形式の変容はあっても、日本特定の宗教・宗派を超越した宗教的感性は変わることはない。