昔、近所に住んでいた明治生まれのお婆さんが、こんな事を言っていた。「日露戦争の時は、ロシアの捕虜がこの道をよお連れて行かれおった」それを聞いて私は、うなだれながら日本兵に連行されて行く捕虜達の姿と、彼らのその後の悲しい運命を想像していた。
「捕虜」と聞くと、やはり誰もがそういったイメージを抱くのではないだろうか。しかし、世の中が世界大戦の時代へと突入する寸前の日露戦争の頃、その構図には大きな違いがあった事を、皆さんはご存知だろうか。
ロシア兵捕虜の厚遇とその背景
1904年~05年(明治37年~38年)までの日露戦争の間に、約8万人のロシア兵が捕虜となり、日本国内全29ヶ所の収容所へと送られた。その際、日本側は捕虜達を、非常に人道的に扱ったという。捕虜達には、牛肉や卵を使った充分な食事が与えられ、収容所には、日本の一般家庭にはまだなかった電気が通っていた。また、規定内ではあるが外出の自由も許されていた。その中でも、愛媛県の松山俘虜(ふりょ)収容所は、捕虜達が道後温泉で入浴したり、市民達と自転車レースを行ったりなど、市民との交流で特に広く知られている。
しかし、なぜそこまでの厚遇が実施されたのであろうか。それは、日露戦争が、1899年のハーグ陸戦条約発効後、最初の戦争だったからである。「俘虜は博愛の心を以って取扱ふべきものとす」と定められたこの条約は、捕虜の取扱いに関する初の国際法であり、よって、日露戦争での両国の行いは、欧米列強の注目するところとなった。日本は、この条約を遵守することで、一等国であることを世界に知らしめる必要があったのだ。
日本に眠るロシア兵達
全国の収容所の中で最も規模が大きかったのは、大阪の「浜寺俘虜収容所」である。最大で、2万8千人もの捕虜が暮らしていたというから驚きだ。
1905年、戦争が終わると捕虜達は母国へと送還されたが、病気などでここで命を落とした89人の捕虜達がいる。そして、その89人が今も眠る墓地があると知り、訪れてみた。
大阪府泉大津市の「市営春日墓地」。見慣れた日本の墓地の風景の中を歩いて行くと、その先に、背の高い慰霊塔が見えて来る。その隣にある、白い玉砂利の上に小さな墓石が整然と並ぶ一角が、彼ら89人が眠るロシア兵墓地だ。墓石自体は100年以上も経っているため劣化が見られるが、墓石の前にはロシア兵の氏名、死亡日、宗教が記されたプレートがあり、一輪挿しには綺麗な花が生けられていた。質素な共同墓地ではあるが、とても大切に維持管理されている事が伝わって来る。
この土地は、当時の市民から提供されたもので、現在でも「泉大津ロシア兵墓地慰霊祭」が行われ、大阪ハリストス正教会の司祭により、祈祷が捧げられている。
国と国を超える人と人との繋がり
以前、大阪ハリストス正教会を訪れて司祭にお話を伺った時「日本で亡くなったロシアの捕虜達は、自分の宗教のお葬式を挙げられたのですか」と尋ねてみた。司祭は「もちろんです」と仰っていた。
日露戦争当時の日本人の捕虜達への接し方は、条約を守るためだけのものではなかったように思う。人と人との繋がりがあったからこそ、彼らの死をも尊重したのではないか。そして、この小さな共同墓地が今も守られていることが、その友好が生き続けている証なのだと思う。