死亡広告とは?
死亡広告とは、新聞や情報誌に掲載する訃報の告知のことです。著名人が逝去した場合の記事とは異なるもので、有料で掲載してもらいます。新聞の場合、全国紙、地方紙で価格は変わってきます。広告内容は物故者の氏名、死亡日時、享年や葬儀が行われる場所などを記載できます。広範囲への連絡手段がなかった時代では、有効な伝達手段となっていました。
お葬式が終わったあとで死亡広告を掲載することもあります。これは葬儀が無事にとり行われたことに、感謝の気持ちを伝えるための死亡広告です。故人の意向により、死亡広告が出される場合も多いようです。最近では個人情報保護の観点から、掲載内容を限定して告知範囲を熟慮する必要があります。
このほか「お別れの会」を行う案内や、逝去したことのみを告知する死亡広告などもあります。様々な使い方ができる死亡広告は、応用がききます。掲載利用する人が減っている一方で、北海道や沖縄などでは、死亡広告が習慣として根付いています。企業の取引先の広告が出ていないか、死亡広告に目を通すことが業務の一部になっている場合もあります。
死亡広告の豆知識:死亡広告は明治時代から
死亡広告が初めて掲載されたのは、明治時代にさかのぼります。明治6年1月14日の「日新真事誌」の紙面に出されました。外務少輔 上野景依範の父親である、上野景賢の病死が告知されています。また東京日日(現毎日新聞)では、明治9年9月27日に初めての死亡広告が掲載されました。ここでは故人を埋葬した場所が明記されていました。明治12年には会葬の謝礼を告知する死亡広告が出ました。
死亡広告は黒い太枠で囲まれていた時期があったことから、「黒枠広告」と呼ばれたこともありました。明治10年11月22日の東京日日に、三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎の弟が出したものが初の黒枠広告です元勲 後藤象二郎の娘の逝去を悼んでの広告でした。
自分の死亡を予告した広告を作成した人もいました。大病を患い、快方の見込みがないという内容でしたが、この記事が掲載された明治14年9月26日の前日に当人がなくなってしまいました。最後に会いたいと思った人々に、この気持ちが伝わることはありませんでした。明治時代の小説家、斎藤緑雨は死亡する2日前に死亡広告を書いています。めでたく死亡した、という内容でした。
大正時代にはスペイン風邪の大流行で、ロンドンに滞在していた日本人が亡くなった死亡広告が出たことがありました。昭和に入ると顔写真入りの死亡広告も登場しています。また愛犬の死亡広告が話題になったこともあります。日航ジャンボ機の事故では、お詫び広告が出されています。この事故による死亡広告の数は相当なものでした。