とあるアメリカの死刑囚は、執行前に2パイントのチョコミントアイスを食べたそうだ。死ぬ前には好きなものを食べたいと考えるのは、自然なことかもしれない。
ところで、キリスト教の聖書には「最後の晩餐」という有名なエピソードがあるが、その時の食事内容は「豆のシチュー、ラム肉、オリーブの実、魚醤(ガルム)etc…」だったそうだ。また、日本にも一膳飯として山盛りのご飯を供える習わしがあり、死と食事の関係については古今東西に関わらず人々の関心事のようだ。
食と欲
旧約聖書に登場するリヴァイアサンという怪物は、神の子である人間に対して、神からの贈り物として地上に任わされた巨大な生きた食糧だった。人間はこの怪物を好きなほど食べ、過酷な古代世界を生き残ったというのだ。
食べ物はすべて、神様からの贈り物という素朴な感情があったのだろう。そして、人々は神への感謝と畏敬の念を込めて、様々な供物をささげることになる。神様へのお供え物と、神様からの贈り物。
実際、神への供えは両義的なものだ。そもそも、何の対価もないのに何かを差し出すなどあり得ない。神を祀り、神を敬うのは、豊穣と安寧そして子孫繁栄を願うからであり、ここでは与えることと与えられることが二重の意味をもっている。欲と希望が矛盾なく一致してしまうのである。
キリスト教における七つの大罪の一つに「暴食」があるが、恐らくこの時点では「暴食」は存在しなかった。食と欲は矛盾していなかったからだ。
そして「暴食」が始まった
宗教が社会システムとして機能していたころは、この二重性(矛盾性)は果てしなく自然なことだったろう。人は与えられながら、与え、受け取りつつ差し出していたのである。それは共依存的であると同時に共存共栄的であり、何より経済的でもあった。しかし、それも長くは続かなかった。
宗教という旧来型の社会システムが機能しなくなると同時に、精神病や神経症が「発見」される。ドイツにおいて19世紀に突如として精神分析が「発明」されるのは偶然ではない。当時、急激な科学技術の発展によって教会の権威が地に落ち、それまで村から一歩も外に出たことのなかった農民たちはいっせいに都市部へ労働者として流入した。時を同じくしてそれまでは悪魔憑きや精霊の仕業とされた精神疾患は、医学的・化学的な治療を必要とする「病気」へと変質させられた。
犯罪は脳と神経に起因するものとされ、凶悪化、組織化し流動的になる。そしてこれらに対処するため、刑罰が法文化される。神様への道義的反逆ではなく、人間としての罪としての死刑制度が定着する。そしてその制度の中には、死刑囚が最後に食べたいと望むものを与えるという規則も存在した。冒頭で述べた2パイントのアイスは、こうして出来上がった。リヴァイアサンが尽きたのである。そして「暴食」が始まった。
最後に何を食べたいか
人間は食べなければ生き残れないが、食べているから死ぬのである。死刑囚のように暴食するか、キリストのように静かに食べるか。先に挙げた死刑囚の最後の食事と、同じく時の権力者によって処刑されようとしていたイエス・キリストの最後の晩餐の違いは何だろうか。
死ぬ前に好きなものを好きなだけ食べたいのは、人間の欲である。一方で、明日もしかしたら自分は死ぬかもしれないということを意識しつつも、今日の食事を静かに終えるのは希望でもある。だからこそ、普段の生活から注意したい。本当に食べたいものを食べるべきだ。最後の晩餐として、自分が何を食べたいのか分からないようなことは避けたい。それは神様からの贈り物であると同時に、神へのお供え物でもあり、最後の晩餐でもある。
最後に何を食べたいだろうか。