関東圏で「ムサコ」と言えば、神奈川県では川崎市の「武蔵小杉(こすぎ)」。東京多摩地区ならJR中央線の「武蔵小金井」。そして東京南部の城南地区であれば、東急目黒線の「武蔵小山(こやま)」のことになる。
その武蔵小山にはおよそ250の店舗、全長800mにも及ぶ、「東京人気商店街ランキング」の常連・武蔵小山パルムがある。
第十三次満州興安東京荏原郷開拓団とは?
1923(大正12)年3月に、目黒蒲田電鉄、通称目蒲(めかま)線の目黒〜丸子間の開通が開通したこと。そして同年9月1日の関東大震災以降、比較的被害が少なかった目蒲線沿線に多くの人々が移り住むようになった。そのため、武蔵小山駅周辺には、都心に働きに出る「勤め人」とその家族を対象とした店が軒を並べ、大いに賑わっていたという。このような武蔵小山の商店街だが、ひとつの悲しい歴史がある。第2次世界大戦中に、商店街を挙げて1039人もの人々が「第十三次満州興安東京荏原郷開拓団」として遠く満州(現・中国東北部)の興安街(こうあんがい、満州北西部の王爺廟 ワンヤミョウ)に渡った。しかし戦死・病没・自決によって、800人余りの人々が、異国の地で無残な死を遂げることになったというものだ。
なぜ開拓移民として満州に行かざるを得なくなったか?
1937(昭和12)年7月、支那事変が勃発した。その翌年4月には国家総動員法が施行されたことから、物資統制令が敷かれ、商店は自由に品物を仕入れることができなくなった。そして4年後の1941(昭和16)年12月、日本は太平洋戦争に突入した。しかも戦争に伴って始まった配給制度により、国民は衣食全てが配給されることになった。これらの結果、武蔵小山商店街のみならず、日本の商業界は大きな痛手を受けた。そうした中、1943(昭和18)年10月に先遣隊として商店街の64名が満州に入植。その2ヶ月後の師走に、商店街の人々に「満州開拓団勧誘の回状」が回された。
移り住んだ先の満州が危険地帯になっていく…
回状を読み、「商売のできなくなった東京を捨て、第二の新天地で王道楽土を築こう」と決意した、幼児から61歳以上の高齢者の男女からなる武蔵小山の人々は、1944(昭和19)年2月に1ヶ月間、七生村(現・東京都日野市)にあった拓務訓練所での農事・軍事教練を経て、モンゴル国境近くの13000ヘクタールの原野に集住した。慣れない土地での半農半牧の生活だったものの、その年は、おおむね順調な業績を上げた。
しかしその翌年の1945(昭和20)年8月9日、ソ連は太平洋戦争開戦時に締結していた日ソ中立条約を一方的に破棄する形で日本に宣戦布告した。ソ連と「遠くない」満州の地は、危険な状態になっていく。
満州開拓団の結末
8月11日、山崎真一団長が興安街の諸官庁を訪ねたところ、官庁職員、特務機関、憲兵隊、満州拓殖公社の事務員たちは誰もいなかった。国境を守る頼みの関東軍各部隊は既に解散し、各自で安全なラインまで後退しているという。街は阿鼻叫喚の混雑を極めている。その日の4時過ぎには、ソ連軍の飛行機が空中から爆撃を始めた。翌日には戦車や機械化部隊が続々と南下してくる轟音が聞こえてきた。14日になると、暴徒と化した現地民からなる匪賊(ひぞく)が人々を包囲し、最初の犠牲者が出た。16日に全員は、南方方面に脱出することで一致する。しかし17日、団員たちは射撃してくる匪賊に、龍江省雙廟子(ソウミョウツ、現・黒竜江省北西部)の麻畑で包囲されてしまう。そんな中、山崎団長は副団長の足立守三に「どうか内地まで脱出の努力をお願いします。山崎は大勢の人々とここで死んだと伝えて下さい。どうか、今まで無理ばかり言ったことを許して下さい」と言い、自分の形見として、愛用の象牙のパイプを手渡した。その後、「さあ、みなさん最後です。私について下さい」と挨拶した後、声を張り上げ、「天皇陛下万歳 東京開拓団万歳」と叫び、銃で自決した。それに続き、他の人々も次々と同じ道を選んだ…。
麻畑で自決せずに南を目指した人々の中には、途中で満州人や中国人に助けられ、そこで新たな家庭を築く者もいた。しかし大半は、飢えと病のために力尽き、そのまま満州の土となったのだ。
現在の武蔵小山
あれから73年。現在、武蔵小山駅前周辺では、将来的には4棟のタワーマンションが商店街を挟む形で林立することになるという、大規模な再開発が進んでいる。
開拓団の苛烈さを物語るものは、何も残っていない。しかし、商店街からほど近い日蓮宗の朗惺寺(ろうせいじ)には、「第十三次満州興安東京荏原郷開拓団殉難者慰霊碑」がある。この碑は、命からがら生き残って武蔵小山に戻ることができたほんのわずかの人々によって、1957(昭和32)年、開拓団壊滅の13回忌を祈念して建てられたものだ。とはいえ、この碑の存在のみならず、満州開拓団に商店街の人々が旅立ち、「終戦のドサクサ」に翻弄される形で曠野に斃れたことさえ、あまり広く知られていないのが現実だ。
日本人にとって重要な意味を持つ8月
8月といえば、日本人にとって大切な、自分の先祖を供養するお盆、そして15日の終戦記念日がある。そんな今だからこそ、自分が住む地域やふるさとに埋もれた戦争の傷跡を掘り起こし、恒久平和の祈りを捧げること。そして彼らが全う出来なかった命を自分は今、果たして大切にしているかを考え巡らせることが肝要だと言える。
参考文献
■東京都品川区(編・刊)『品川区史 通史編 下巻』1974年
■品川区教育委員会(編・刊)『しながわの史跡めぐり』1997年
■川上允『品川の記録 戦前・戦中・戦後 −語り継ぐもの』2008年 本の泉社
■東京都歴史教育者協議会(編)『新版 東京の戦争と平和を歩く』2008年 平和文化
■足立守三『嗚呼第十三次満州興安東京荏原郷開拓団』足立守三・坪川秀夫・吉岡源治(編)『嗚呼第十三次満州興安東京荏原郷開拓団/第十三次満州興安東京開拓団の最後』1957/2009年(23−100頁)塚原常次(私家版)
■足立守三・恒友出版取材班(補筆)『満州開拓団・隠された真相 曠野に祈る』足立守三・坪川秀夫・吉岡源治(編)『嗚呼第十三次満州興安東京荏原郷開拓団/第十三次満州興安東京開拓団の最後』1982/2009年(101−322頁)塚原常次(私家版)
■坪川秀夫『第十三次満州興安東京開拓団の最後』足立守三・坪川秀夫・吉岡源治(編)『嗚呼第十三次満州興安東京荏原郷開拓団/第十三次満州興安東京開拓団の最後』1975/2009年(323−342頁)塚原常次(私家版)
■坪川秀夫『棄て民よ 蒙古嵐は祖国まで −第十三次興安東京開拓団潰滅の真相』足立守三・坪川秀夫・吉岡源治(編)『嗚呼第十三次満州興安東京荏原郷開拓団/第十三次満州興安東京開拓団の最後』1994/2009年(343−552頁)塚原常次(私家版)
■吉岡源治『望郷の遺書 悲劇の満州東京開拓団』抜粋 足立守三・坪川秀夫・吉岡源治(編)『嗚呼第十三次満州興安東京荏原郷開拓団/第十三次満州興安東京開拓団の最後』1992/2009年(555−645頁)塚原常次(私家版)
■塚原常次『あとがき』足立守三・坪川秀夫・吉岡源治(編)『嗚呼第十三次満州興安東京荏原郷開拓団/第十三次満州興安東京開拓団の最後』2009年(646−709頁)塚原常次(私家版)
■寺門雄一「戦災と地域」品川区(編)『品川区史2014 歴史と未来をつなぐまち しながわ』2014年 品川区 (346−349頁)