6月22日午前11時半ごろ、静岡県浜松市西区舞阪町、浜名湖今切口東側の遠州灘沖合50〜100m付近で、体長約2mのサメが目撃された。
日本近海に生息するサメは100種類を超えるというが、普段我々は頻繁にサメに出くわしているわけではない。そのため、サメが近海に現れたというと、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画『ジョーズ』(1975年)のような人喰いザメの出現か、はたまた、いつ起きてもおかしくないと言われている、巨大地震の前触れではないか…など、人を恐怖のどん底に陥れる存在のように捉えがちである。しかし、全てのサメが「恐怖の存在」というわけではない。
東京の品川に伝わるサメの伝説とは
四方を海に囲まれた日本では、主に沿岸地域に、サメにまつわる伝承・伝説が多く存在する。例えば鎌倉時代(1185頃〜1333)に在地領主だった大井氏・品河氏による開発によって、港と水運が発達し始めていた東京の品川には、以下のような話が伝わっている。
鎌倉時代中期、北条時頼(1227〜1263)が執権をしていたころ(1246〜1256)のことだった。品川沖で漁をしていた船が大ザメに狙われ、体当たりされていた。このままでは船がひっくり返り、漁師全員が犠牲になってしまう。そこで漁師たちは、誰かひとりが海に飛び込み、サメの犠牲となる。その間に逃げてしまおうと決めた。犠牲者を誰にするか。頭に巻いている鉢巻を海に投げ、最初に沈んだ者にすることになった。船主の息子の鉢巻が一番早く沈んでしまった。息子は意を決し、腹帯一つになった。そして仲間に手を合わせて別れの挨拶をした後、海に向かって観音経を高らかに唱え、サメのいる海に飛び込んだ。残った漁師たちは急いで櫓を漕いで、岸辺に向かった。
船の名前に「観音丸」が多い理由
しばらくすると船主の息子が、海面に浮かんできた。漁師たちは慌てて息子を船に引き上げた。大ザメはどこかに行ってしまっていた。我に返った息子が、腹に手を当ててみたところ、観音像がない。船主一家は代々観音様の熱心な信者だったことから、船の名前は「観音丸」と名づけられていた。そして息子が漁に出るときは、肌身離さず観音像を身につけていたのだ。その観音像がいつの間にか、なくなっていたのだ。
それから何年か後、品川沖で大ザメが仕留められた。漁師たちがサメを解体したところ、腹から観音像が出てきたのだ。「観音様があのとき、身代わりになってくれたのだ」と、助かった息子は観音様のありがたさに感謝したという。
東京の品川にある鮫洲の地名の由来とは?
この話は建長3(1251)年に、執権・北条時頼に報告された。すると時頼は「天下安全のめでたい前触れであろう」と、鎌倉・建長寺の開山であった南宋からの渡来僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、1213〜1278)を開山に迎え、海晏寺(かいあんじ)を創建させた。その際、大ザメの腹から出てきた観音像を本尊として安置した。また、大ザメの頭を御神体とする鮫洲(さめず)明神もこの寺の近くに祀られた。現在、運転免許試験場がある品川区東大井1丁目界隈が「鮫洲」と呼ばれていたのも、この大ザメの話が元になっている。
身代わりと観音の関係
仏教、そして民俗学的な意味合いにおける「身代わり」とは、人の苦難を地蔵などが代わりに受けたり、仕事を代わりにやってくれたりするという信仰や伝説のことを言う。「身代わり地蔵」が有名だ。傷を自分に受けて、救ってくれた。田植えを手伝ってくれていた…などがあり、地蔵に傷がついていたり、地蔵の足が泥で汚れたりすることなどで、人々が「自分の身代わりになってくれた」と気づき、地蔵の功徳を喜び讃えるところで話が終わるものだ。
鮫洲明神の建立理由とは
船主一族が代々信仰していた観音様がサメに食われるはずだった船主の息子の身代わりになってくれたというのは、果たして「真実」だろうか。また実際に、大ザメの腹から観音像が出てきたのか。今となってはその真偽を確かめるすべはない。昔は、観音像を2体つくり、1体は寺に祀り、もう1体は海へ流した。そしてその像が流れ着いたところを「ゆかりの地」として、その地にその像を祀る習俗があったという。もしかしたら、サメが腹の中に飲み込んでいたのは、海に流されていた観音像だった可能性もある。ただ当時の人々は、観音様が身代わりになってくれることを信じていた。そして何らかの災厄に巻き込まれ、運よく助かったときには、観音様に感謝することを忘れず、寺の本尊としてお祀りした。更には大ザメそのものに対しても、解体し、人間に有用な部位を取った後、その残りをそのまま捨て置くのではなく、「霊魚の頂骨」としてその頭を御神体とする「鮫洲明神」を建立したのだ。
最後に…
サメとは軟骨魚類の一種で、サメ、エイ、ギンザメがあり、サメ・エイ類は板鰓(ばんざい)類、ギンザメはギンザメ類に分類され…が、現代の「科学的」なサメの定義である。しかし我々日本人がサメに限らず、世の中のあらゆるものを理性的に定義づけ、それと「距離」を取る姿勢を取り始めるようになった明治の文明開化から、ほんの150年ぐらいしか経っていない。確かに事実と非科学的なことは明確に峻別すべきであるが、時に我々は、サメの腹から出てきた観音様、サメの頭をお祀りした神社のことを、6月22日の遠州灘におけるような、不意のサメの出現の際に、思い出すべきではないだろうか。何故なら、人間は完全無欠の有能な存在ではなく、サメのみならず、自然の大脅威の前では、ただただひれ伏すしかなすすべがないからである。
参考文献
■山下重民(編)『東京近郊名所圖會 第12巻:大日本名所圖會 第87編』1911年 東陽堂
■磯ヶ谷紫江『南浦地名考 全』1857/1951年 紫香會
■葛西道夫『史跡をたずねて各駅停車 京浜急行線歴史散歩』1987年 鷹書房
■品川区教育委員会(編・刊)『しながわの昔ばなし』1993年
■仏教民俗学会(編)『仏教民俗辞典 コンパクト版』1993年 新人物往来社
■谷内透『サメの自然史』1997年 東京大学出版会
■品川区教育委員会(編・刊)『しながわの史跡めぐり』1997年
■(社)日本水産学会監修 中野秀樹『ベルソーブックス 028 海のギャング サメの真実を追う』2007年 成山堂書店
■柘植信行「中世の品川」品川区(編・刊)『品川区史 歴史と未来をつなぐまちしながわ』2014年 (274−277頁)