パワースポットという言葉がすっかり定着した。人気のある占いの店には行列が絶えず、スピリチュアル系の書籍はコンスタントに出版されている。一方で、墓離れ、葬儀不要論、または人前結婚式など、伝統的な宗教文化・儀礼・儀式などの影響力は衰えるばかりだ。
占い・スピリチュアルは許容され伝統宗教が敬遠される要因は一概には言えないが、昔ながらの形式・様式といったものに対して特に若者たちは窮屈さを感じているのではないか。しかし「形式」とは決して疎かにするものでない。
「形式」を嫌う現代社会
浄土真宗僧侶 多田修は仏教書の2016年の「仏教の売れ筋ランキング」に注目し、その傾向を分析した上で、「瞑想、修行、仏教思想の日常生活への応用といった、体を使った行動や、行動に裏付けられた話を説いた書籍が目につく。死生観、社会性、信仰を論じた書籍は少ない」であると指摘し、主な読者層は、「生活の在りかた、瞑想や修行、そしてこれらに裏付けられた内容に興味が持たれる傾向がある。仏教の公益性・死生観、信仰、仏事、儀式に対する関心は高くない」であると結論づけている。
現代において瞑想やマインドフルネス、それらから派生する人生哲学などに比べ、伝統的な儀式や法要などへの関心が薄いことは確かだろう。書店に行けば「占い・スピリチュアル」のコーナーと「宗教」のコーナーの差は歴然であるし、パワースポットを巡る旅行はしても、墓参りに足を運ぶことは少なくなっている。
こうした背景には、宗教的な精神世界への興味はあるが、束縛的な教義・儀式や、組織・共同体への従属などは嫌う、現代的な個人主義があると思われる。形式に囚われず、自分たちがそれぞれ自由に探求をするこのような傾向を、宗教学者 島薗進は「新霊性運動」と呼び、現代における精神世界への態度の特徴であるとしている。
形・型の効用
形式という言葉は「形式ばった」とか「形式に囚われる」など、あまり良い響きを持っていない。「形から入る」などという表現も基本姿勢や正しい動作を指すというより、「初心者が見た目から入る」といったマイナスな意味で使われることが多い。
個性を尊重する現代社会では伝統やマナーを悪しき慣習、因習として反発する空気が生まれやすい。以前投稿した「千の風」のブームなどもそうした風潮に後押しされたものだといえるだろう。
確かに形・型に囚われ、精神的硬直化に陥るのは愚かなことである。しかし一方で、「形」・「型」というものは美しい様式美を生み出すものだ。武道、茶道、花道などを身につけた者の正式な所作は凛として清々しさを与える。
例えば空手の形は全動作が決まっており選手が恣意的に変えることは許されない。しかし決まっているからこそ、その動きを洗練させるために修練を積む。自分の好きにできてしまっては、どうしても自分の都合の良い動きになってしまう。
俳句もまた同じである。五・七・五の文字数の中で感性と思案を巡らすことで独特の美が生まれる。
また、能では能面を被って表現する。なぜ素顔で喜怒哀楽を見せるのではなく、あえて面を被るのか。素顔の自由を隠すことで、全身でつまり己の存在そのもので内なる情念、人間性の真実を醸し出すのである。能の高手の舞いは鬼気迫るものがあり、動かないはずの面に表情が走る。「風姿家伝」に言う「秘すれば花」とはこれを指す。
根強く残る「形」
儀式・法要について言えば、これも幾度か論じたことであるが、人は「仮としての形」が必要なのである。偶像崇拝を禁じるイスラム教ですら、聖地メッカに岩のドームがある。そもそもメッカという存在自体が礼拝の「仮の対象」であるといえる。
筆者は友人の人前結婚式に出席した際、祭壇らしきものに、バラの花が十字架の形に飾られていた。特定の宗教色を排することが特徴の人前式でも、結婚という「儀式」を象徴する対象としての「形」が必要だったのである。そこにこそ、生涯を共にするという厳粛な雰囲気が生まれるのだ。
毎年、終戦記念日に行われる戦没者供養の式典に設置される供養塔も「儀式」の「形」である。とにかく何らかの「形」すなわち「依代」がなくては祝福も供養もしようがない。
最後に・・・
個の自由が全てにおいて良いということにはならない。どの分野でもそうだが、自分の好き勝手にできることで、謙虚な心を忘れ増長する恐れがある。形式・様式には先人の意味がこめられている。そこから学ぶことは大きい。
また、形に嵌めるということは自堕落な自分を律することでもある。自由も大切だが、ここで一度形式というものに向き合ってみてはどうか。
参考文献
多田修(2017)「現代人は仏教に何を求めているか─アマゾンランキングを通しての考察─」浄土真宗教学伝導センター「浄土真宗総合研究」11号