古代日本において、死者を弔うために詠まれていたとされる挽歌。起源は古代中国で葬儀の際に棺を担ぎ、出棺する時に歌われたものらしく、秦の時代(紀元前202年)に歌われた歌詞を記入した墓碑銘が当時の墓から発掘されたこともあるという。
日本に伝わった時期
その後日本にはヤマト王権の時代を経て、仏教伝来時(西暦538年頃)には伝わっていたものとされ、確実な資料として残されているのは、奈良時代に編纂された歌集である万葉集であるとされる。万葉集には挽歌が263首あり、短歌長歌合わせると何と万葉集全体の5.8%になるとのこと。
挽歌は誰に対して歌うのか
挽歌について調べてみたところ、家族や恋人、主人が亡くなった際にその死を悼むために成立したとされるが、様々な説が存在し確定していない。ここで若干疑問が沸いたのだが、家族や恋人ならば分からなくもないが、主人となると何を以て主人となるかという点である。
当時は天皇を頂点とした身分制度が厳格に制定されており、主人並びにその一族と主人に仕える者達とに区別されていたと考えられる。では主人を今に例えてみると、会社の社長や直属の上司と考えれば良いのかもしれない。
挽歌は死者を弔うために歌うのではなく、復活を願うために歌われていた
万葉集にある挽歌をそのまま読むことは、筆者にはできなかったので現代語訳になっているものを幾つか読み込んでみた。すると、概ね死者を弔うものではあるものの、どちらかと言えば死者の復活を願う内容が多いような気がした。そこで更に調べてみると当時の死生観が見えてきた。当時は死を体から魂が分離されるものと考えていたようで、埋葬されあの世に行ってしまう前に魂が体に戻るよう願いを込めて歌を歌った。それが挽歌であったのだろう。
時代とともに弔うために歌われるようになった挽歌
しかし、読み込みを続けていくと時代が下がると同時に内容に変化が生じてきた。復活を願うものではなく、純粋に弔うものやあの世での往生を願う内容である。原因はといえば死生観の変化であろう。死者の復活を願うという観点からあの世での往生や弔いへと変わったのだ。では、その切欠は何だろうか。色々考えてみたのだが、一つ大きな出来事を忘れていた。それは仏教の伝来だ。伝来に関する詳細は省略するが、仏教が日本の国教として天皇家から貴族、庶民へと広まったことと挽歌の内容の変化は密接に関係しているものと考える。更に時代が下り平安時代になると、当時の歌集である古今和歌集では挽歌は無くなり、代わりに哀傷歌として詠い継がれていくことになる。あまり読み込んでいないのだが、内容はかなり変化していて、弔うようなものではなくフィクションを含んだ文学と言ってもいいように感じた。
今も昔も死者への思いは変わらない
挽歌について触れてみたが、最も驚いたのが当時の人達の死生観が目前に現れたことだった。形として残っているわけではないが、ほんの一部かもしれないが当時の人達が何を考え、何を思ったのかが分かった気がしたのだ。家族や恋人が死ねば悲しい。それは当時も今も変わらない。だが、死者に対しての思いや考え方の変遷が見えたので感慨深かった。