私は、幼いころに犬を飼っていたことがある。寝食や旅行といった多くの時間を一緒に共有した。そして、その犬が亡くなったときには、人目を偲ばずに泣いて、手厚く葬り土葬をした。このように近年、犬や猫などのペットも家族同然、すなわちパートナーであるという認識が定着しつつある。ペットとより多くの時間を共有してきたという事実を鑑みると、この認識は当然なのかもしれない。ところが驚いたことに、現在ではロボットに対しても、犬や猫などの本物のペットと同様に葬式が行われている。そこで、今回はロボットの葬式がどのようなものなのかを探っていこうと思う。
実際に執り行われた「AIBOのお葬式」
AIBOとは、2006年にかけてソニーによって販売された犬型ロボットである。内部には人工知能が搭載されているため、自分の意思で動くのが特徴のロボットであった。しかし、機械なのでどうしても故障は避けられない。当初は修理を受けつけていたものの、部品の影響で2014年にサービスを終了せざるを得なくなった。そこで、解体される前のAIBOに感謝の気持ちを伝えたいという思いからお葬式が始まった。
心がないロボットに感謝の気持ちを伝えるという行為には違和感こそあるものの、ここまで手厚く葬られる背景には、AIBOが自分自身における日常そのものであるとする考え方があるようだ。つまり、AIBOは人の心を映す鏡であり、AIBOを通して自分の心を見ているように感じるため愛着がわいて、手厚く葬られるのである。AIBOが自分そのものであるという理論に徹すれば、ロボットの葬式という行為にも、まったく違和感はない。
本物のペットとはちがうロボットペット
一方でロボットは、どんなことがあっても本物のペットに成り代わることはできないといういう意見も多数存在する。今まで動物との時間を数多く共有してきた人にとっては、動物と人間が作ったプログラミングされたロボットを、たとえそれがいかに精巧であったとしても、同じものとして捉えることは当然できるはずがない。
したがって、ペットを飼っていたほとんどの人が、動物が亡くなった悲しみはロボットでは埋めることができないだろう。すなわち、ペットはいかなる場合であっても、ロボットに成り代わることができないということである。そこで、ペットを飼っていた人にとっては、ロボットをペットに見立てる行為そのものがナンセンスなのである。本物のペットを飼っている人からすると、ロボットの葬式は極めて奇妙な行動にみえるだろう。
ロボットの葬式と今後
AIBOの葬式はロボットを自分の心を映す鏡と捉えるなら理解できるものの、ペットと多くの時間を共有してきた人からすると到底理解できない行為である。だが、元来仏教には草木国土悉皆成仏という考えがあり、これは草木や国土みたいな心を持たないものでも、成仏ができるという教えであり、AIBOのようなロボットでも成仏することができるということである。つまりAIBOと人間はつながっていて、これをつなげるのが人間独自の感受性という理論である。すなわちAIBOは自分の感受性を受け止めてくれる鏡であり、自分の調子がわかるパートナーでもある。
ペットを飼っている人のペットと共有してきた多くの時間にとってかわることはできないものの、AIBOを利用している人にとっては、AIBOはペット以上にペットなのである。まさにAIBOは自分の化身であるといっても過言ではないだろう。こうするとパートナーとしてのAIBOの葬式には、まったく違和感を感じないのではないだろうか。