資料請求
心に残る家族葬のロゴ
追加費用不要の葬儀

心に残る家族葬トップ > 葬儀のコラム > 乳児から幼児、子どもへと成長していく過程で「死」をどう認識していくか

このエントリーをはてなブックマークに追加

乳児から幼児、子どもへと成長していく過程で「死」をどう認識していくか

我が家で飼っていたうさぎが亡くなった。10才だったので天寿を全うしたと思える死であったが、3才の子供はそうはいかない。翌日から「どこに行ったの?寂しい、会いたい」と泣くようになった。公園で友達とバイバイするのが怖くて、ひっくり返って暴れた。二カ月間、家から一歩も出なかった。あれから半年。先日墓地の看板を見て、「なっちゃん(うさぎ)と一緒にいったよね?もう会えないのかな」と呟いた。子供はいつから「死」というものを理解し、消化できるようになるのだろうか。


乳児においての<いない>ということ

心理学用語に「Object Permanence」という言葉がある。これは「対象の永続性」と訳される。自分の前からある人や物が<見えなくなった>としても、その人や物は<別のところに存在している>という認識を指す。

赤ちゃんは母親が目の前からいなくなると泣いてしまう。これは「対象の永続性」が発展途上であり、「今ここにいないだけ」という認識が正確にできないからである。<いない>ということが全てであり、「今どこかに行っている」だとか、「戻ってきてくれる」ということはわからない。赤ちゃんは「ママは消えてしまった」と感じている。

しかし生後9カ月から12カ月程度にと「ママは今ここにいないだけで、どこかにいる」という認識ができるようになる。<存在している>ということがわかるようになるのだ。これは「対象の永続性」を習得したということである。

しかしまだ「生死」について理解できているわけではない。


幼児においての「死」

大人は生きている生物と、生きていない無生物とを分けて考えることができる。同時に命あるものには「死」があり、死んだらもう生き返らないということを知っている。1~3才頃になると「全てのものに命がある」と感じるようになる。

生物と無生物の違いは「動いているか否か」だけである。ぬいぐるみと話したり、お世話をしたり、という行為はここに起因している。「死」と「一時的な離別(どこかへ行ってしまう)」や「眠り(そのうち目覚める)」との区別は不十分である。

悲しむことはできるし、「生きてる」や「死んでる」という言葉も使うが、もう生き返ってはこないという不可逆性を理解できない。

身近な死を体験すると、ストレスから食事や睡眠、排尿・排便のコントロールにおいて問題が起きるケースが多い。「死」を感じることはできるが、理解が追い付かない、不安定な時期である。


子供にとっての「死」

4才を過ぎてくると「眠る=死」という解釈から進展する。

内臓の役割、生命の維持について正しく理解している子供が現れ始める。6才を過ぎるとほとんどの子供が生物としての「死」を理解している。

つまり死んだら生き返らないということであるが、まだ「死」の「普遍性(すべてのものが必ず死ぬ)」や「不動性(死んだら動かない)」の理解は足りていない。

「死」が誰にも避けられないものだとわかるのは小学校中学年くらいである。


「死」を受け止める

科学的見地からの「死」の理解に心が付いてくるかというと別問題である。7才児でも心が理解するには負担がかかりすぎていると言われている。「自分のせいで死んだのかもしれない」と自分を責めることもよくある。

子供が身近な人の死を前にしたらどのように対応すればいいのか。重要なことは子供の年齢と発達段階にそって「死」について説明することだ。そのとき、説明は簡潔で、直接的に行う。「遠くの国へ行った」など、あいまいで遠回しな表現を使用することは子供を混乱させるので使用するべきではない。

子供は自分の安全を保障してもらいたいという気持ちがあるので、その不安を解消することを一番に考えたい。子供に「死」に触れさせるのは可哀想だと、葬儀に参加させないケースも多いが、これは逆に、子供にとっては突然「死」に直面することになりかねない。あえて葬儀に参加を勧め、子供にも大切な人を送り出し、追悼する機会を与えるといいだろう。

「死」の意味を知るということは命の大切さを知る良い機会でもある。子供に寄り添い、一緒になって「死」を悲しみ、受け入れ、乗り越えていく努力が、大人たちには必要だ。


ライターアンドウ
子どもの人権をまもるために

子どもの人権をまもるために

このページのトップへ